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将軍はなぜ殺されたか―豪州戦犯裁判・西村琢磨中将の悲劇 イアン ウォード

 
本書は、この手の物には珍しくオーストラリア人が書いている。
戦時中、マレー半島で起きた捕虜殺害事件の戦犯裁判が冤罪だったことを恥じ、それを細密に掘り起こし上梓しているが、これまでB・C級裁判で処刑された将官の本は、
 
洪思翊中将の処刑』 山本七平
『いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝』 角田房子
『ながい坂』 岡田 資中将(おかだ たすく)大岡昇平
 
と読んできたが、しかし、西村琢磨中将という人は知らなかったな。
一体、何が起きたというのか、古書市で見つけたこの本、やはり読まずにいられない。
事件は1942年2月15日、英国が山下将軍に降伏した後の4週間に起きた。
マレー半島のパリットスロンで、負傷した110人のオーストラリア人と45人のインド人を銃で乱射した上、まだ生きている者がいるにもかかわらず、石油を掛けて焼けと、ある高級軍人が命令したと証言する者が出た。
 
その虐殺を死んだふりをしてひとり生き残った証人、ベン・ハックニー中尉が現場で、階級の高い軍人を目撃したことから全てが始まる。
事件に携わった部隊が近衛師団であるということは判明していたが、ハックニー中尉は、階級の高い軍人が近衛師団長西村中将であったとまでは確認できなかった。
このため47年6月、西村事件の調査は一端終了する。
だが49年、東京にあったオーストラリア戦争犯罪科課のジェームス・ゴドウィン大尉が、近衛師団のフジタセイザブロウ中尉を取り調べた結果、事態は急転。
 
フジタは西村中将の命令により捕虜虐殺を自白したとされたが、供述書にサインしないまま姿をくらませてしまった。
その後、西村裁判の再審請求で提出された3人の元幕僚の供述書は、全て似通った内容のもので、ゴドウィン大尉の誘導尋問、教唆、歪曲があったのではないかと、今日疑われている。
さらに検察側証人に対する反対尋問、弁護側証人の出廷もさせることも出来ず、ハックニー中尉が現場で見た高級軍人が西村中将と確認出来なかったことは伏せたままになった。
当時から供述書が「ゴドウィンによって彼らが言ったかのように作成された」のではないかという疑いはあったらしい。
彼らとは3人の元幕僚で、その結果検察側は、
 
「人間の命や苦しみを全く気にかけない悪人」
 
とまで西村中将は言われてしまう。
ハックニー中尉が見たという軍人は、背の低いずんぐりした人物だが、実際の西村中将は身長165㎝で太ってはいない。
今一つ大きな問題は戦争犯罪の調査と裁判はいつまでも続けることは出来ず、どこかで線引きをしなければならい。
それに対しアメリカはオーストラリアに強い不満を表明している。
 
しかし、オーストラリアの軍務局や戦争犯罪調査関係者は、ハックニーが見た階級の高い軍人が西村中将と確認できないまま裁判は推移して行き、最終結論としてシンプソン法務官は次のように締め括る。
 
「この裁判について私は、再審を必要とするような誤審があったことを示すものは、何もないという結論に達した。それ故私の考えでは、この再審申請にについていかなる処置も必要ないということになる」
 
1951年6月11日、マヌス島で処刑、享年61歳。
辞世の句
 
「責めに生き 責めに死すのは 長(おさ)たらむ 人の途なり 憾(うらみ)やはする」
 
今や、西村中将の名を知る人はオーストラリアにも日本にも少なかろう。
こればかりは冤罪と思って執筆してくれたイアン・ウォード氏に感謝するしかないが、戦後、B・C級裁判では冤罪で処刑された方も多かったと聞く。
これも敗戦国の定めか、涙を飲んで刑場の露と聞く消えた人たちは本当にお気の毒だ。
西村中将は現場に立ち寄ったことは認めているが、物の数分で立ち去ったという。
しかし、虐殺事件は実際に起こっており、近衛師団の幕僚の誰かが命令したことに間違いない。
その幕僚の誰かは分からないまま、敢えて強い反論もせず、ひとり西村中将は処刑された。
当然、名誉回復は為されず、それも敗戦国の定め。
 
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