愛に恋

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ロマノフ家の最期 アンソニー サマーズ・トム マンゴールド

 
20世紀最大の謎のひとつ、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世が革命政権によって銃殺された時、家族全員が殺害されたのかという疑問が長らく分からままになっていた。
理由は皇帝一家の遺体がその後、数十年間発見されなかったことにある。
中でも信憑性を持って語られたのが皇女アナスタシアが生き延びたという説。
本書は、皇女アナスタシアがのちにアンナ・アンダーソンと名を変えて生存していたという説を追跡している。
 
ソヴィエト崩壊後の1991年、シベリアで発掘調査が行われ、ようやく遺骨が発見されるに至ったが、5人の子供のうち2人の遺骨が見当たらなかった。
そして2007年、シベリアの森で新たな遺骨が2体発見され、アメリカの専門家によって1年間、調査分析された結果は。
エカテリンブルクに移送された皇帝一家、果たして1918年7月16日深夜、アナスタシアの身に何が起きたのであろうか。
 
政権を獲ったとはいえ、まだ脆弱な革命政権内では皇帝の処遇を巡って意見が分かれ、一家の処刑を考えていたレーニンと、皇帝の罪を明らかにするため裁判を主張すろトロツキー
当時、革命軍と皇帝を守ろうとする白軍との内戦は激しさを増し、エカテリンブルグにも白軍が迫っていた。
 
皇帝銃殺は誰がいつ決定したのか。
当時の記録にはこうある。
世界では皇帝が死んだと噂されており、その真偽をデンマークの新聞社に問われたレーニンは言う。
 
「噂は本当ではない。皇帝は無事。噂は資本主義新聞のデマである」
 
確かにこの時点ではまだ皇帝一家は生きていた。
しかし同じ日、皇帝を幽閉監禁していたエカテリンブルグの地方組織、ウラルソビエトはやきもきしながらモスクワからの最終決定を待っていた。
 
7月16日22時21分、ウラルソビエトからモスクワへの電報。
 
「既に合意済みの決定を延ばす状況にはない。もし貴方の考えがそれに反対なら至急返事を送られたし」
 
彼らは予め危機が迫ればある決定を遂行するよう支持されていた。
返電のレーニンの電報は発見されていないが、その3時間後、日付が変わった17日、皇帝一家と従者、合わせて11人は深夜に起こされ地下室に移動を命じられ、入って来た銃殺隊によって全員処刑された。
銃殺を指揮した警備司令官ヤコフ・ユーロフスキーの証言。
 
「7月16日、ロマノフ一家の銃殺命令を暗号電報で受け取った。既に全員就寝している。一家を起こし、こう説明した。市内が不穏なので下の階に移動する必要がある。ロマノフ家の人たちは何の疑いも抱いていなかった。
彼らを下の部屋に連れて来た。漆喰を塗られた木製の部屋が選ばれた。銃弾が飛び散らないようにするために。ニコライはアレクサイと妻を椅子に座らせた。他の者たちには一列に立つよう命令した。
みんなが並んだ後、警備司令官である私が部隊を呼び入れた。私は決定を告げた。
 
貴方たちのヨーロッパの親戚がソビエト・ロシアを攻撃しているのでウラル・ソビエトは貴方たちの銃殺を決定した。ニコライは司令官である私の方を向いて『何だって!』と訊ねた。私は通告を繰り返し銃殺隊に発射準備を命じた。部隊は血が多く流れないよう心臓を狙うよう命令されていた。銃撃は2・3分続いた。ニコライは私の一発で直ぐに亡くなった。アレクセイと3人の娘たちはまだ生きていた。心臓を狙ったのに銃弾は何かに跳ね返って部屋の中を飛び散ったからだ。娘の一人を銃剣で突いたがコルセットを貫通しなかった。死亡確認のため20分ほどかかってしまった」
 
ここで言うコルセットを貫通しなかった、または銃弾が何かに跳ね返ってとは、女性たちが身に着けていたコルセットの内部にダイヤモンドが縫いつけられてためだが、ヤコフ・ユーロフスキーの証言には一家全員の死亡を確認したとある。 
銃殺直後、午前2時にウラルソビエトからのレーニンへの電報。
 
「ウラルソビエトはニコライ・ロマノフを銃殺した。家族は安全な場所に避難させた」
 
2日後の19日、皇帝の処刑が僅か6行の記事で新聞に公開。
しかし家族への消息は何も掲載されていなかった。
だが同じ日の17日、もう一通の暗号電報が存在する。
そこにはこのようにある。
 
「7月17日、21時。モスクワ、クレムリン宛。一家は全員、その当主と同じ運命を辿った。公式には家族は避難の途中で死亡したこととなる」
 
そして見つかった遺骨は最新のDNA検査でニコライ一家のものと判明。
それなら、アンナ・アンダーソンとはいったい誰だったのだろうか?
 
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