愛に恋

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高橋お伝とエリート軍医たち 大橋義輝

 
歴史関連の本でよく見る「と言われている」とか「そう伝わっている」という記述はどういうことなのか、かねてから疑問に思っていた。
古代や中世の話しならともかく、近・現代史においては甚だ曖昧な表現だ。
歴史上の大問題として光秀謀反の真相、内匠頭松の廊下の刃傷沙汰、龍馬暗殺の下手人など興味の尽きない問題だが、私の言う「と言われている」の一つの例題が本になっていた。
 
これまで誰も追跡しなかったある問題に疑問を持ち、その所在を探し歩くノンフィクションで積年の疑問を解き明かしてくれる本と思われたが。
追跡の対象者は高橋お伝
日本では阿部定と並んで毒婦の代名詞のように言われているが、この本では経歴や事件の背景がテーマではなく、刑死したお伝の陰部が解剖した医師によって切り取られ、アルコール漬けにされて東大に保管されたという伝承が本当か否か、また現在でもその"物”が実在するのかどうか徹底した調査を行っている。
 
事件そのものは単純なもので明治9年8月26日、金を無心した男に言われるまま一泊、しかし翌朝、男が金を貸す気がないと知るや、喉を剃刀でかき切って殺害、11円の金銭を奪って逃走。
数日後、逮捕されたお伝は裁判で死刑が確定、3年後に斬首。
当時はまだ旧刑法制定前なので、これが最後の斬首刑となった。
 
陰部が抉り取られた経緯は分らないが、東京帝国大学医学部にアルコール漬けにされ保管とあるが、問題はどの文献にも保管された「と言われている」と書くだけで、確認した人がいないまま今日に至った。
 
お伝にとって悲劇だったのは、美人ゆえの語り草で、戯作者たちが庶民の興味をそそるよう経緯(いきさつ)を脚色、中でも仮名垣魯文「阿傳夜叉譚(おでんやしゃものがたり)」が、殊の外ヒットし、世に毒婦伝説を広く流布させるに一役買ったことは間違いない。
お伝は重病の夫に献身的に尽くす一面、その夫の死後、知り合った情夫との生活に困窮して凶行に至ってしまうなどはどこか哀れさを誘う。
 
本書では繰り返しその物を「保存する意義は何んだったのか」と問うているが、異常性欲者だからこそ医学研究のため必要だったとも言っている。
 
さて、本文には私の知らないことも多々ある、例えば首相浜口雄幸の死因鑑定をした病理学の世界的権威、清野謙次という人が昭和7年に学術誌「ドルメン」に「阿傳陰部考」という論文を連載している。
その辺りを読み進めていると確かにこの人は、お伝のその”物”を見た上で論文を書いているようで、この時点では存在したということになる。
ただ、東大ではなく陸軍軍医学校の病理教室にあったと言っている。
 
そしてあろうことか、昭和50年に「阿傳陰部考」が、写真付きで再販されたというではないか。
著者は国会図書館でその本を借りて読んだと言っているが、私もその論文を読んでみたい。
やはり標本としてその物は存在していたのは事実らしい。
 
戦後、更に奇異なことが。
あるデパートで、お伝の"物”が「若き人々におくる性生活展」として展示されたという。
チラシには、
 
「毒婦として高橋お伝の名前を知らぬものはないでせうが、お伝の毒婦たる所以を知る人は少ないでせう~」
 
高橋お伝がいくら有名だからといって、戦後間もない頃にデパートでこんな展示会があったとは驚き入る。
江戸時代、解剖のことを腑分けと言ったが著者はその後、お伝の腑分けに立ち会った人物、または生まれ故郷も訪ね、微に入り細をうがって調査した結論は、やはり、その物の所在は分らなかった。
いったいどうなってしまったのか。
お伝は処刑の日、引き出されると役人に向かって、
 
「申し上げることがございます」と身をもがき猛り狂って男の名を呼び始め獄卒も朝右衛門もしたたか弱らされた。
 
とある。
朝右衛門とは首切り朝右衛門のことだが、身をよじってもがくお伝の首を一刀では落とせず頭を斬りつけ、悲惨な最期を遂げる何とも後味の悪い処刑だったらしい。
 
呼び続けた男の名は市太郎で、後年、その市太郎の遺児たちは石田姓を名乗っているが、はて?
因みに阿部定事件の被害者は石田吉蔵で、お伝が殺害した男は後藤吉蔵。
 

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