愛に恋

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中原中也との愛 ゆきてかへらぬ 長谷川泰子

文壇史上によく言われる中原中也小林秀雄長谷川泰子の三角関係とはどんな経緯を辿ったものだったのか一度読んでみたかった。
本書は昭和49年初版で角川ソフィア文庫が平成18年に再販したものだが、語っているのは当事者の長谷川泰子本人である。
 
履歴書によると中也が、三つ年上の長谷川泰子と同棲したのは大正13年4月17日。
女優志望だった泰子は、京都の表現座という劇団で台本読みの稽古のあと、中也から声を掛けられたらしい。
その表現座が潰れて行く所のなくなった泰子に、
 
「僕の部屋に来てもいいよ」
 
と誘い同棲生活が始まった。
中也はとにかく自分の詩を理解してくれる仲間が欲しかった。
自然、交際も年上が多くまだ16歳だったが女郎屋通いも初めていた。
その後、泰子を連立って東京中野に引っ越すが、その近くに住んでいたのが生涯の友人小林秀雄というわけだ。
 
私は中原に対して魅力と嫌悪を同時に感じた。
中原は確かに私の持っていないものを持っていた。
ダダイスト風な私と正反対の虚無を持っていた。
 
と、5歳上の小林は書いている。
その小林が、ある雨の日、
 
「奥さん、雑巾を貸してください」
 
と言って中也の家に来たのが泰子との初対面で、それ以来、小林は頻繁に来ては泰子と話すようになり、あまり泰子に構わない中也に対して、都会的でサービス満点に話す小林に、いつしか心が傾いて行くのも無理からぬこと。
運命の日、何か書き物をしている中原の背中越しに泰子は言い放つ。
 
「私、小林さんの所へ行くわ」
 
中原の返事は・・・!
 
「う~ん」
 
だったとか。
中原は書く。
 
「私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない。私の女を私から奪略した男の所へ、女が行くといふ日、實は私もその日家を變へたのだが、自分の荷物だけ運送屋に渡してしまふと、女の荷物の片附けを手助けしてやり、おまけに車に載せがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵の男が借りて待つてゐる家まで届けてやつたりした」
 
一般的に中也の人付き合いの荒さは有名で、小柄の割には喧嘩っ早く、殆どの友人が喧嘩を売られ、大岡昇平太宰治など、かなりやり込められている。
泰子は中也と別れたというものの、何かにつけ二人はその後も会うことが多かった。
しかし仲がいいんだか悪いんだか、フォークとナイフで渡り合ったとか、ある画家のアトリエで取っ組み合いの喧嘩になり、泰子が中也を組み伏せたとき、画家にこう言われている。
 
「取っ組み合うのは勝手だが、俺の彫刻をぶっ壊すなよ。用心して喧嘩してくれ」
 
何だか面白い二人だ。
泰子は中也と知り合ったことで詩人、画家など芸術家の友人も多く、ある日のこと、建築技師の山岸光吉という男に夜遅く、家まで送ってもらったことが災いして小林と喧嘩になり「出て行け」という泰子の一言で完全にキレた小林は、その日からもう二度と帰って来ることはなかった。
本書には彼女の交友関係として多くの著名人が出てくるが、どうも男性に対しての警戒心が薄いようにも思える。
案の定、山川幸世という男に犯され妊娠出産。
それを聞いた中也は怒りを露わに、
 
「俺の言うことを聞いていればこんなことにならなかったのに」
 
と暴れ出した。
中也という人は、自分にとって得難い人物に会うと徹底的に付き合うが、流行に支配され主義に走るなどと言う人間は軽蔑し喧嘩も耐えなかった。
 
「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合う」
 
この小林の言葉で運命を変えてしまった泰子と中也、その後、それぞれに家庭を持ったが、若くして逝った中也の葬儀に参列した泰子は、人目も憚らず声を上げて泣いたという。
それ以後、小林とも度々会うこともあったらしいが、この奇妙な三角関係について中也、小林共に何故かあまり詳細を書かなかった。
後にそれを書いたのが3人をよく知る大岡昇平になる。
 
余談だが、昭和6年に時事新報で「グレタ・ガルボに似た女」募集というコンテストがあり、その1位当選者が長谷川泰子で、当時の写真を見ると似ているのかどうか、何とも言えない。 
 
 

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それにしても昔の文士や画家と絡んだ女性の半生というのは、近代文壇史を語る上では欠かせませない存在と言える。
 
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