著者の本を読むのはこれで二度目になる。
『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』を数年前に読んだが、とにかく徹底した調査力で、個人でここまで出来るのかと感心するほど凄い。
今回はどうなのか、因みに著者の住まいはブルックリンだとか。
本作を書き上げるまでに10年の歳月を要したとある。
三菱財閥の血筋を受け継ぐ沢田美貴を書くには何層も積み重ねた歳月が必要だったらしい。
何しろ疲れる、エリザベス・サンダース・ホームと岩崎家三代の歴史を踏まえて読まなければならない。
エリザベス・サンダース・ホームとは昭和23年2月1日に神奈川県大磯町に沢田美貴によって作られた児童養護施設のことで、進駐軍の落し子として生まれた子供たちを拾って育てた施設だが、占領下とあって、これがなかなか容易なことではなかった。
進駐軍としては、そのような不名誉な施設は、あまり歓迎しなかった。
エリザベス・サンダースとは福祉に貢献し日本で生涯を終えた実在の人物で、彼女が貯めた財産がホームに寄付されたことが、その名前の由来らしい。
救済事業を始めるインスピレーションを与えたのは英国の『ドクター・バナードス・ホーム』の孤児院見学で、戦後、初めての入所者は楠木正成像の下に捨てられていた子を拾ったことに始まり、以来、次々に子供を拾っては施設で育てることに情熱を注ぎ、約2000人孤児を育て上げた。
因みに施設内にある寮はジョセフィン・ベーカーの寄付で出来上がったもので、昭和29年、来日した折、全国公演で、集まったお金を全額沢田に寄付、確かベーカーもそのような施設を作っていたはずで、二人の考えは共通していたのだろう。
といっても現在残っているのは洋館と和館の一部で、かつては相当広大な敷地面積を誇っていたらしい。
戦前、財閥岩崎家がどれだけ裕福だったか参考程度に書いておく。
大正初期の人員一覧によると家族は美貴の祖母、父、母、兄、妹を含め9名。
使用人が事務方5名、コック2、板前1、運転手3、書生3、電気技師2、掃除夫2、小使2、庭師3、盆栽師2、女中16、総計50名ほどで、敷地面積1万5千坪あまりに20棟もの建物あった。
このほか、駒込別邸、深川別邸、国分寺(現在は殿ケ谷戸庭園)、伊香保(のちの観山荘)、大磯、伊豆長岡(現在は旅館三養荘)、箱根湯本(現在は吉池旅館)、京都の別邸、千葉の末広農場、岩手の小岩井農場を所有、その富が知れるであろう。
敗戦とはこういうことなのだ。
注: 本書では途中にエリザベス・サンダース・ホームと下山事件の関連に付いて書かれている箇所が多くあるり、非常に興味のある事柄だが、話が横にづれるのでここでは書かない。
ホームを始める動機はいろいろあったが、その中で印象深いのは、夜行列車の網棚に乗せられていた風呂敷包みの中に、黒人の嬰児の死体が見つかり、以来、美貴は堪能な英語を武器に世界中で公演して寄付金を募り、昭和28年、社会福祉法人となり補助金を受けられるようになるまで設立維持に努力した。
しかしその地で病を得て、思いもかけず同地で客死した。
波乱の生涯を閉じたのは1980年5月12日、78歳だった。
因みに美貴に英語を教えたのは、あの津田梅子だという。