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昭和史発掘 石田検事の怪死 松本清張

 
う~ん、疲れそうな記事になりそうだ(汗
まず、この事件を語る上で当時の政治状況から話すのが得策かと思うので、そこから始めたい。
舞台は大正15年10月30日の東京。
この年は12月25日から昭和と改元
 
政局は与党憲政会が若槻内閣の下、不安定ながらも舵を取っていたが、大正10年の原首相暗殺を受けて後継争いに敗れた床次竹二郎が憲政会を離党。
新たに政友本党を立ち上げ、憲政会の後継は高橋是清に決まる。
 
その頃、野党政友会では長州閥出身の陸軍大将田中義一が総裁に迎えられ、両党の勢力は拮抗していた。
そこでキャスティングボードを握るのが床次率いる政友本党となる。
 
そんな中で起きた石田検事の怪死!
新聞は大々的にこの事件を報じ、政局を揺るがすほどの謎が秘められていそうだとマスコミは騒ぎ出す。
石田検事が当時抱えていた懸案は、田中政友会総裁の機密費問題、摂政宮暗殺未遂事件と言われる朴烈事件と大阪の松島遊郭移転問題。
 
朴烈事件と松島遊郭問題は、時の若槻内閣の明暗を分ける程の大問題で、下手をすれば内閣の瓦解にも繋がり兼ねない懸案だが、一方、田中政友会総裁機密費問題とは、田中大将がシベリア出兵当時、陸軍の機密費300万円を横領して、それを持参に政友会総裁に迎えられたのではないかという噂で、同時に陸軍次官の山梨半蔵が、大臣官房主計室の無記名公債を横領したと告発され、政友会は政権奪取の機会を失い兼ねない事態に追い込まれていた。
 
反対に憲政会では、朴烈と共犯の金子文子が取調室で相擁している怪写真が何故か出回り、取調べの立松判事が寛容しすぎると司法省に対して批判が広がり窮地に立たされ、そこに持ってきて松島遊郭問題。
 

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問題となった二人の怪写真。
 
松島遊郭問題とは、大阪市内発展と共に、松島遊郭を移転させようと誘致合戦が繰り広げられたことに端を発し、移転先候補の地価が高騰し激烈な競争が始まる。
そんな折、ある土地会社が与野党の実力者に金銭を送ったことが分かり、これが収賄罪に問われ、若槻首相の名まで出てきたから憲政会は窮地に立たされ、政友会も田中、山梨の金銭横領問題如何によっては大打撃で、それらの事件に辣腕を揮い、峻烈で一切の妥協を許さない検事として陣頭指揮を執っていたのが石田検事というわけだ。
しかし、渦中の石田検事が死亡したことで田中・山梨問題は胡散霧消。
 
大正15年10月30日、午前5時40分頃、東海道線大森、鎌田中間地点の暗渠のような所で保線工夫の男性が死体を発見、直ちに警察に連絡。
所持品の名刺「東京地方裁判所検事局次席検事石田基」から身元が分かるが、現場検証の結果、頗る不自然な点があるにも関わらず、その日の午後1時、検視の結果、吉松検事正は記者会見を開き、
 
「石田検事の死はいろいろ調べた結果、断じて他殺ではなく過失であった」
 
と処理、遺族の強い要望による司法解剖も無視して、その日の内に火葬場に送られた。
物情騒然たる中で起った怪死事件に疑問を持った3人の刑事は、独自の調査を始める。
何とか政権奪取を試みる政友会は、不敬罪で逮捕された朴烈が無期懲役になったことを非難し、倒閣の道具として摂政宮に違法と知りながら、豊富な資金源をバックに院外団の右翼団体を操り直接直訴状を提出しようと企む。
 
院外団とは政党の謂わば用心棒で、殆んどが剣道や柔術の心得がある集団。
政友会の政商、久原房之助は前科のある村井亀吉に目を付け、資金を渡し直願運動により憲政会を政権から引きずり降ろす策に出るが、検察側はこれを事前に察知するや直ちに久原を検事局に召還して取調べを行った。
 
久原の召還は異常な衝撃を与え、上司の鈴木喜三郎から田中義一へと芋づる式に召還されるのではないかと政友会は焦る。
だが、鈴木喜三郎は検事総長、司法大臣を歴任した石田検事の大先輩で、先に逮捕されていた村井亀吉を何の理由もなく釈放させてしまう。 
 
村井亀吉逮捕により、直願問題の全貌を取り調べる矢先の釈放に、石田検事は上司の吉田検事正に抗議。
それが鈴木喜三郎の耳に入り、鈴木の怒りを買ったことは間違いない。
しかし、剛直な石田検事は事件追及の手を緩めることはなく、石田検事に恐怖した村井亀吉らに残された手はただひとつ。
 
石田検事は事件前夜の29日夕刻、日比谷の瓢(ひさご)という料亭で同僚の送別会を10人ばかりで開いていた
そこへ9時半頃、女中から耳打ちされ電話室に立つ。
2~3分程して戻った石田はそれから20分ほど経った頃、
 
「今日は用が出来たからこれで失敬する」
 
と言って席を立つ。
それが午後10時ぐらい。
後の調べで電話を取り次いだ女中は、てっきり奥様だと思ったと証言しているが、果たして掛けてきたのは妻ではなかった。
夫人は調べに対して自分は掛けていないと証言している。
死体発見は午前5時40分。
 
更なる調査の結果、石田検事の自宅裏に院外団らしい事務所が借りられていたことも突き止める。
そして午前0時頃、検事宅の前に車が止まり、
 
「先生、もう一度もとの場所にお戻り下さい」
 
という言葉を家族のものが聞いている。
その後、車が急発進。
果たして元の場所とは何処か?
推測として考えられるのは瓢を出た石田検事は誰かと落ち合うため、車に乗せられその人物と会う、そして、その人物から各事件の捜査から手を引くように依頼される。
しかし、検事の考えは変わらず、一端その場は物別れ。
そして帰宅直前、今度は拉致されるように車に押し込まれる。
その時に柔術でいう当身を喰らわせられ気を失い、事件現場まで連れて来られて殺害される。
 
発見された死体には出血がなく、左頭部の傷も濃赤色になっているだけで、顎の右側にある打撲傷にも出血はなかった。
医師の検案書によれば、
 
顎部右側に一寸二分の裂創を存し創低骨膜に達し右下顎隅骨折三個に分裂す。
 
死因は、
 
頭部及び下顎部における鈍体の作用により脳震盪症を招来し、その外力共に強激にして、骨折を来したるものと認めらる。
 
つまり、この検案書を見る限り、列車から飛び降りた、または跳ねられたという形跡はなく、後の下山事件と類似するところもあるが、石田検事の死体は轢断死体ではない。
石田検事に関係する4通の脅迫状も明らかになっている。
その中に当身という言葉があったが、院外団が用いる方法だ。
 
気絶させて殺害する。
それにしても、吉益検事正は司法解剖にも付さず「事故死」と強引に処理し、その日のうちに荼毘に付したのは何故か。
久原房之助は以下のように豪語していた。
 
「朝鮮か満州で自分が経営する鉱山事業の中で秘匿させてしまえば分からないだろう」
 
事件の真相は遠い歴史の闇の中に消え、もう明らかになることはない。
最後まで事件を追及した検事団の報告書の末尾にはこうある。
 
「トモカクモ、ソノ動機イズレニアリトスルモ、村井亀吉ニ対スル嫌疑最モ濃厚ナリ」
 
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