愛に恋

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赤線跡を歩く 消え行く夢の街を訪ねて 木村聡

 
 
公娼制度の廃止は昭和33年3月31日。
明治・大正生まれで、この制度にお世話にならなかった男性はまず、いないと思うがどうだろう。
筆おろしなりなんなりと、通って当然の一般社会が何百年と続いたはずだが、記録によると公娼制度廃止に反対した娼妓たちがいた話も、確か昔読んだような気もするが。
 
本書は1998年出版なので、20年前までは残っていた全国の遊郭など旧赤線と呼ばれていた建造物の写真が網羅されているが、やはり開発の名の下に多くは取り壊される運命にあるのは致し方ないのか。
今年、2018年の段階では更にその数を減らしているだろうに。
 
私も旧遊郭跡と呼ばれる場所に一度だけ行ったことがある。
もう40年ほども前の話しだが名古屋の中村遊郭で、その昔、東海随一と謳われた中村遊郭大正12年、中区大須観音近くの旭遊郭が移転して出来たもので、以前、その大須に住んでいたこともあり、あの辺りの地理に詳しいが、一帯は戦災に遭い昔を偲ぶよすがは何もない。
 
しかし中村遊郭は戦災に遭わなかったのか、その豪壮な建物は健在だった。
今現在はどうか知らないが、記録によると3万坪の敷地に139件の妓楼があり2000人の娼妓が在籍していたとあるから、その賑わいぶりが伺い知れる。
料金システムなど私が知る由もないが以下のようになっていたらしい。
 
・写真店(見世)
 玄関を入った所に娼妓の写真が掲げてある店
 
・陰見世
 店の奥で女性を見せる
 
・張見世
 この制度は人権上の理由から大正5年以降廃止になったらしい。
 つまり通り面した格子越しに女性を「陳列」させるシステム。
 
・送り込み制
 女性の控えている置屋と客の登楼する店が別。
 
・居稼ぎ制
 店に娼妓が住み込んでいる。
 
・銘酒屋
 これは表看板のことで実態は私娼を置いている店。
 
公娼制度の善し悪しはともかく、江戸の昔から遊郭というのは火災が絶えなかった。
吉原などは三層楼の豪壮な建物が通りを埋めていたが明治44年の大火、大正12年の震災では、浅草十二階下の銘酒屋、千件が壊滅したとある。
そして昭和20年の戦災で1200人の娼妓が焼き出された。
 
遊郭とは貸座敷免許地のことであり、戦後、占領軍の統治下にあった日本は、俄かに米兵相手の遊郭が乱立する状況もあって活気づいたが、公娼制度の廃止後はカフェーやスナック、旅館、工場、アパートと名を変えて細々と存続してきた建造物も老朽化に伴い解体される運命になった。
 
数々の試練と苦難を乗り越え、娼妓たちの涙と色恋に彩られた風情ある建物は、開発という美名の下に消え去って、ビルとなり駐車場として次の役割を果たす。
かつてそこに妓楼があったことなど誰も知らない整備された街並みが現出する。
それもまた時代の変遷か、なにか物悲しい
千葉県松戸にはこんな歌があるらしい。
 
高瀬舟の櫓声が響く 
松戸女郎衆はいかりか網か
登り下りの船とめる
 
上手いこと言うね!
 
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