愛に恋

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絶頂美術館 西岡文彦

そうなんだ!
 
「すべての芸術はエクスタシーに通じる」
 
陶酔、恍惚、艶、やはり芸術にはエロチシズムの妙なる調べが流れている。
何につけ絶頂感とは達成感と同義語だから作品も、その極みに達したとき芸術も一層輝く。
しかしながら芸術の世界では、そのエロチシズムが時代の変遷と共に価値観を左右してきたという事実。
 
本来、芸術の世界では縦の線と横の区割りがあり、縦の線、つまりは年代によっては数世紀の開きがあり、横の線、その国の価値観、例えば共和制、帝政、または宗教、イデオロギーによって捉え方がかなり異なってくる。
 
恋愛結婚が普通の現代だが、19世紀ではそれは一般的ではないのと同じで、ヌードに見慣れた今日からすれば写真や映像のない当時の裸体が衝撃、或は非難、中傷の的となっても不思議ではない。
新しいものは常に謀反であるとの喩えどおり、芸術は常に旧勢力との戦い。
異端児が現れては出る杭は打たれ、嘲笑、批判、翻弄、そして今日、一定の評価を得ても、それとて時代が変われば評価も変わり、芸術は普遍的であっても評価は一辺倒ではない。
 
しかし、なるほど絵画は当然のことながら奥行きが深い。
東洋絵画では余白は「空白の美」であっても西洋絵画で空白は未完成を意味する。
学ぶべき価値観というのは、現在の高みに立って過去の尺度を斟酌するのではなく、リアルタイムでその衝撃を目撃しないと、過去に常識だった評価も伝わりにくいということか。
 
幕末の遣欧視察団が欧米の建築物や産業を見た時の衝撃は、俄かには伝わりにくいのと同じだ。
故に、発表当時の批判は、現在の私達には漠然としたニュアンスしか伝わらない。
この書の確信部分は以下の言葉に尽きる。
 
「絵画や彫刻がヌードを描く際には、それが裸体である必然性というものが要求された。古代ギリシャ・ローマを題材にするなり、聖書や神話の場面を描くなりして画中の人物が衣服を身に着けていないことの説明が立たない限り、ヌード表現は許されなかった」
 
しかしいつの時代でも為政者や権力に対して、毅然と叛旗を翻す者が出て来る。
エロスを前面に押し出し、古く重い扉を如何にこじ開けて行くか、その起源と過程を描いたのが本書のようだ。
 
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