大正9年に新聞連載された小説が、数十年の時を経って、これほど売れるとは異常現象といっていい。
しかし、これがまた面白い。
片山宏行という人がこう分析している。
その閉塞した時代の間隙を縫い、意義申し立てをするかのような大衆文学としての『真珠夫人』が多くの支持を集めた。
そんな菊池の関連本には必ず出てくると言っていい「マント事件」なる逸話がある。
彼は弱者には非常に優しい気持ちの持ち主だったようで、この時も義侠心を発揮している。
一高時代の三年の時、親友に頼まれマントを質屋に入れに行くが、そのマントが下級生の物と分かり窃盗の嫌疑がかる。
依頼主の親友に冤罪を晴らしてくれと頼むが、親友は親に迷惑がかかると泣き出し、しかたなく自ら罪をかぶり、せっかく苦労して入学した一高をあっさり辞めてしまった。
更に、結婚する29歳までは、女嫌いで通っていたが、どういうわけか結婚後は急に女好きに転じ、愛人、妾と異腹の子供が複数あったというが、震災後に焼け出された妾が、母と子を連れ立って菊池を頼ってやって来た。
連れて来た子供とは、もちろん菊池の実子だが妻妾同居が始まる。
一体に、妻妾同居とはどういうものなのか、想像の範囲を出ないが、受け入れる妻も妻ならやってくる妾も妾だ。
菊池が剛腹なのか妻が太っ腹なのか妾が大胆なのか。
だが、仕事人菊池寛の凄いところは、内容が異なる小説を同時に5本、6本と連載するという離れ技をやってのける剛腕で、それ故、当時の菊池邸は旅館のような賑わいでごった返し食堂も大変な人込みだったとか。
その文壇の大御所たる菊池を襲った災難が戦後の公職追放だった。
全ての職を解かれた菊池の余技は専ら女遊びだったのか、60になったら止めると妻に公言したらしいが、その60歳を待たずして菊池59歳の時に妻は家出。
これが死の一因ともなった。
何とか妻に戻って来てほしいと願った菊池は一計を案じ、全快した暁には自宅で、身近な者だけを集めた快気祝い開くことを提案。
そしてその時、昭和23年3月6日午後9時15分、宴たけなわの最中、菊池は倒れた。
妻は勿論、主治医、一族郎党、米軍将校も居る中での急死だった。
彼を襲ったのは胃腸の病ではなく狭心症なのだが、経験者として一言。
あれに襲われると死神の顔を覗くようなもので、生死の境が紙一重の瀬戸際まで追い込まれる。
菊池寛は新思潮派と言われるグループに属し、芥川や久米正雄、後輩の川端康成、横光利一、または直木三十五とも仲が良かったが、既に芥川、直木、横光は亡く、今また菊池を失った衝撃は特に久米正雄には大きかった。
30数年来の付き合いで、急を聞き付け上京した久米は菊池の遺体に向かって言った。
「菊池、御無沙汰して済まなかった!」
葬儀委員長は久米正雄で、以下、弔辞を読み参列した著名人は小島政二郎、川端康成、吉屋信子、首相芦田均、舟橋聖一、六代目尾上菊五郎、 里見 弴、石川達三、吉川英治、林芙美子、大映社長永田雅一と錚々たるお歴々だが現在では全員が鬼籍に入っている。
本書は菊池のお孫さんが書き、タイトルからして私好みだったので文庫化された時には嬉しかった。