愛に恋

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椎の若葉に光あれ 葛西善蔵の生涯 鎌田 彗

昨日、私のこの記事を言及された方がいましたので、改めて読みなおしてみました。

うん、この記事はなかなかイケるなと思いましたので、再掲いたします。

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芸術作品と言えども一世紀も経れば評価も定まり、現在の価値と相容れぬ作品などは自然淘汰され、作者と共に忘れ去られていく運命にあるようだ。
葛西善蔵、今日、彼の文学が読まれることはあまりないだろう。
例えば葛西を取り巻いていた当時の貧乏文士たち。
 
舟木重雄、広津和郎、相馬泰三、峰岸幸作、谷崎精二 宇野浩二嘉村礒多牧野信一、間宮茂輔、諏訪三郎、川崎長太郎などで辛うじて残ったのは広津と宇野ぐらいか。
葛西と同じ津軽出身の作家ではどうだろうか。
 
石坂洋次郎が持て囃された時代は昭和30年代のことで、今日では彼の作品を読む者もまず稀だ。
彼自身も言っているように通俗小説としての芸術的な価値は少なく将来的には消えていく作家のように思う。
 
その石坂洋次郎葛西善蔵に初めて会った日は有島武郎と波多野秋子が軽井沢の別荘で縊死しているのが見つかり新聞で大々的に報じられたその日らしい。
 
余談だが、本書を読んで残念に思うことが一つある。
石坂が葛西の住まいを訪ねた日、それは大正12年7月8日だが、葛西の住まいは鎌倉建長寺塔頭のひとつ宝珠院。
建長寺の境内を通り抜けて300メートルほど坂を登り途中50数段の階段があり、その奥まった暗い住まいが宝珠院で現在もそのままにある。
その建長寺に参詣したことがあるだけに悔やまれる。
まあ、詮無き事を言っても仕方ないが、葛西の余りに無頼派的な生き方には流石に首を傾げる。
 
「生活の辛酸は苛烈な記録の酵母菌として、望むところであった」
 
と著者は言うが無法無残な生活たるや如何なものか。
妻の実家から援助を受け、妻子は郷里に残し、誰彼構わず借金を頼み首も回らず。
太宰は「悲しみは、金を出しても買え」と言っているが、それにしても度の過ぎる飲酒と貧困。
宝珠院に住むことになったきっかけは、建長寺正門前にあった龍王館からの紹介。
3度の食事は龍王館の親戚茶屋、招寿軒の娘、「おせい」が365日岡持ちを提げて運び、毎夜12時頃まで葛西の酌にも付き合ったとある。
そしてそこは男女の仲。
田舎に妻子を残したまま、おせいとの間に2人の子供を作ってしまった。
年若い石坂洋次郎はこんなことを書いている。
 
「ああ・・・文学とはかくも深刻な体験なしには生み出せないものなのか」
 
戦前の文士は誰も似たようなもので貧困、借金、失恋、駆け落ち、心中、病苦、自殺と仲間内での小説の題材は事欠かない。
ある友人と喧嘩した時などは、泥濘の中で互いの睾丸を握り合って罵倒し合うなど、今では考えられない生活が転がっているが、それだけ必至に生きていたとも言えるのかも知れない。
葛西は石坂に、
 
「人にキンタマもみせられないで、そんなことでキミ、いい小説が書けますか」
 
と嘯(うそぶ)いてる。
葛西の言う芸術とは、
 
果たして小説は妻子を路頭に迷わせても成立しうるか
 
と言うようなものだが、意外というか当然のように石坂洋次郎のような人より、このようなどうしようもない無頼派を伝記作家は好む。
その石坂洋次郎は葛西に散々振り回わされてやっとの思いで逃げ出すが、後世に生まれた私としては哀れさを誘うばかりで同情心が湧く。
おせいと葛西は喧嘩三昧の日々で、ある時、友人が葛西宅を訪ねてみると二人は取っ組み合いの最中。
ぼろぼろの丹前を着た葛西はおせいを殴ろうとするが、
 
「この糞ったれおやじめ、死にぞこないの業つくばりめ、さあ殴るなら撲ってみろ」
 
といいながら葛西を布団の上に押し倒そうとしていたとか。
14歳年下で背の低いおせいであったが既に結核と喘息に侵されていた葛西は、おせいに組み伏せられてしまう。
友人が割って入ったが何かその場の情景が目に浮かぶようで物悲しい。
それでも終生、葛西の元を離れなかったおせい。
宇野浩二は精神を病み、有島、芥川、そして牧野信一も自殺して葛西は結核に斃れる。
もう一度喀血したら最後と医者に言われ熱が38度あっても酒だけは愛した葛西。
芥川が死んだ翌年、7月23日永眠、享年41歳。
おせいこと、浅見ハナは葛西の死後60年以上も存命し、晩年は痴呆症を患っていたが、時折娘の家を抜け出し、タクシーに乗って建長寺へ、そして宝珠院の階段で蹲っているところを発見されたこともあった。
斯くも男女の間は物悲しい
二人の人生、偲びて何をか思わん。

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