愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

乱れ雲 伝・佐藤紅緑 監修 城市郎

 
一体、自分は何の為にこんな本を読んでいるのかと思うことが多々ある。
専門外、畑違い、理解不能、いくら背伸びをしたところで解らないものは分からないといった本。
近くの商店街にリサイクルショップがある。
主に衣類専門だが、どういうわけか棚に二段だけ古書が置いてあり、ほんの偶にだが、目ぼしい本に出合う。
何しろどれでも105円とお買い得。
 
先日のこと、ふらっと立ち寄って見つけてしまったこの怪しげな本。
佐藤紅緑とは言わずと知れた大正・昭和の流行作家で佐藤愛子の父親だが、この「伝・佐藤紅緑とは何ぞ!
佐藤紅緑の伝記本なのか?
更に「性の秘本コレクション」とあるがどういうことか。
取り敢えず分からないままに買ってきた。
 
ページを捲ると監修 城市郎の「はじめに」という言葉がる。
それによると江戸期の三大奇書として!
 
『はこやの秘言(ひめごと)』
『あなをかし』
『逸著聞集』
 
になぞらえて現代の好色三大伝奇書と呼ばれる小説。
 
『袖と袖』小栗風葉
 
となっている。
江戸期の三作品は勿論、現代の伝奇書も読んだことない。
小栗風葉とは尾崎紅葉門下で現在ではどうだろう、岩波文庫の『青春』が多少知られている程度かと思うが絶版になっている。
しかし『袖と袖』という本は知らない。
四畳半襖の下張』は裁判沙汰になったぐらいだから知名度もそれなりにある。
問題の『乱れ雲』に関しては、その存在自体知らなかった。
 
では一体、何が書かれているのか。
先に断っておくが、結局これは今日で言うところのエロ小説で全編、殆どが交合の描写で貫かれている。
佐藤紅緑の筆に為るものかどうか分からないが初出が大正初期とも昭和初期とも言われ、とにかく戦前の執筆には違いなく文体は肩苦しいが、その分、格調高い表現になっている。
何れにしてもかなりキツイ性描写には違いない。
予め、その点、断った上で引用したいと思う。
 
主人公、村田俊次なる帝大性が父の友人である伊藤儀兵衛の家に寄寓している場面から始まる。
伊藤家には20歳の富子と18歳の京子という姉妹が居るが、ある日、村田が読書をしていると、富子に何を読んでいるのか見せてほしいと必要にせがまれる。
仕方なく村田は『宮と法師』という本を見せる。
一節を紹介したい。
 
宮はこよなく気上りて耳際まで赤くならせ給ひ、自ら法師の腹には上り給ひて御股左右に打ち拡げ、松の樹ほどの節くれ立てる一物の熱気溢るるばかりなるを、ゆかしと握りしめて、御手ぢから玉門に押当て給ふ、法師もさすがなる心地のすれば、ひしと抱き奉りて下よりぐっと差しあぐれば、さそいの水ぬらめきに、むりむりむりと突き入りたり、以下略。
 
と、長々と性描写の文脈が続く。
玉門とは勿論、女性器のことだが登場人物全てに於いて「事」が直ぐ始まる
佐藤紅緑という人には日記が存在するが未だ読んだことがない。
しかしながら文語体の格調高い名文だと聞いている。
作中、こんな言葉が登場する。
 
「落花情あり、流水豈意なからんや」
 
本来は「落花情あれども、流水意無し」と書き、散る花は流水を慕うが、川の水はそ知らぬ顔で流れてゆくという意味で、こちらに情があっても相手に通じないうことの例えだが艶文を読んで興奮している富子を村田は押し倒し。
 
無理に彼女の薔薇の如き唇に火の如き接吻を与える。
 
そして激しく熱い息遣いの下、二人の情交が始まるが富子は処女。
しかし、疑問も生じる。
処女の身でありながら差しも気軽に独身男性の部屋に上がるであろうか。
確かに以前から好意があったとは言っているが初体験がいとも簡単に行われる。
小説だからと言ってしまえばそれまでだが、この後、村田は同じく処女の妹京子も犯す。
おかしな事に京子は村田が姉と関係を持っていることを知った上で行為に臨む。
関心するのは京子との事の終わりをこのように結んでいる。
 
熱き抱擁の中に、桃源の境を味わいつつ仮睡の夢を辿って行った。
暁方ちかい頃、京子は音もなく彼女の部屋へ帰っていった。
空蝉の臥床には黎明の嵐が冷やかに流れるのであった。
 
なかなかの名文也。
しかし、古い時代の言い回しでもあり読み方や意味が解らないものもある。
例えばこんな文面。
 
犯(やっ)て好いのは小開(こぼぼ)である。見ては大開がよい、操弄をして遊ぶには毛玉門に限ると昔から伝えられている。
 
操弄」とは、”そうろう”と読むのだろうか。
みさおをもてあそぶと書いてあるが、調べてみると漢文でしか見当たらない。
更に毛玉門とはどこの部位を指しているのか。
毛深い女性器という意味か?
だが、譬えて妙な文章には関心する。
 
ゾッとするほど偉大に膨らんで、緋おどしの鎧に龍頭の兜といった威儀を備えているのである。
 
現代人では、先ずこうは書けない。
当時は射精することを「気をやる」と言ったが、これがまた頻繁に出てくる。
それはいいが「淫水を浴びせかけられたり」というのが分からない。
「潮吹き」というなら分かるが淫水を浴びせる」とは如何なる行為か?
少し文面がエロくなり過ぎているが作品解説としては致し方ないのでお許しあれ。
 
現代人はマスターベーションの事を俗にオナニーと読んでいるが、それらの単語はいつ頃から輸入されたのだろう。
戦前までは手淫と言っていた。
全く読んで字の如しだ。
更に。
 
宵暗の庭の垣根に凭れながら立玉門を犯ったこともある。
 
「立玉門」、体位の表現だと思うが解説は止めておく。
しかし、これも分からない。
 
千鳥とは、昔の張型を二つに合わせたもので、女同士で交換と同じようなことをする機械的の道具である。
 
セルロイドで出来ているとあるが、う~ん、よく分からない。
とにかく全編を通して犯ることしか書かれていないが、一つ思うのは複数出てくる女性が誰もパンティを穿いていないところを見ると明らかに本小説は白木屋火災以前に書かれたものと想像できる。
それにしても作者が誰であれ文体は上手い。
これなどはどうか。
 
威あって猛からず、優しくして猥らならずといった眼光を送らねばならぬ。
 
そして。
 
ヌッと勃え返った陰茎の頭が空割から滑り込もうとする。
 
この空割」という単語も色々考えてみたがいまいちよく分からない。
滑り込もうとするという表現からして、まだ濡れていないというのとは違うと思う。
テクニックに関してはこのような表現を持ちいてる。
 
彼は手練の功を積んでいる者、じわと心を落付けて、少しずつ突進めるのであった。
 
女の対応もこれまた振るっている。
 
「妾(わたし)嬉しい・・・愛欲の飽満というのでしょ。何だか心強く、そして物足らね空隙を満たし得たようね。だけど矢張り大きな罪を犯したような、禁断の木の実を盗んだような、不安と恐怖も感じますわ」
 
さてと、長々書いて来たが本書が紅緑の作かはどうか今以ってよく分からないらしいが少なくとも息子のハチローは、その存在は知っていたとある。
原本の奥付には「1929年7月10日発行」巫山房出版社から発行とあるが29年9月1日「乱れ雲新説」において「乱れ雲」出版は大正初期で巫山房版は、それを底本として復刻したものであるという説が飛び出す。
無論、私に真偽が分かるはずもない。
最後にサトウ・ハチローの言葉を載せておく。
 
おやじに、情緒纏綿たる春本があるという噂は、かねがね人伝に聞いて知っていたよ。単なる伝説にすぎないと思っていたし、まるきり赤の他人同様なおやじの所業、儂にとってはどうでもいいことだし、別段気にもとめていなかったんだがね。
 
昭和44年3月23日談。

 

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