鉄道馬車はレール上の客車を馬が引っ張るのだが圓太郎馬車は道路上の客車を馬に引かせるものらしい。
明治から大正にかけて圓太郎馬車、つまり乗合馬車が存在していたことは知っていたが写真でしか見たことがない。
本書は三遊亭圓朝の弟子、橘屋圓太郎が真打ちとなるまでの出世譚だが、特段、落語に詳しいわけでもない私が何ゆえ、このような本を読むのか。
ただ何となく古書店で見かけ状態が良かったからという、まったくもって短絡的な理由でしかない。
しかし、帰ってよくよく見ると最近の本ではなく、何と初版は昭和16年、当然、作者も知らない人。
六代目尾上菊五郎の座付作者と書かれている。
仕方ない、つらつらと読み進めてみるに、当たり前だがどうも会話が落語調。
舞台は日露戦争前後の東京。
しかし、いくら読んでも圓太郎馬車なるものが出て来ない。
ただ一カ所、こんなくだりがある。
高座でのこと。
途端に圓太郎は右手で鞭を打ち鳴らすかっこうをし、左手を喇叭のつもりで口へ当てた。一見、馭者になっていた。やがて喇叭の圓太郎と謳われて一世を風靡し、昭和の今日まで圓太郎馬車の名を遺すにいたったも宜(むべ)なるかな。
ただ、これだけのことで他に圓太郎馬車が出て来る場面はない。
なら、タイトルはこれでいいのかと訝ってしまうが。
故に感想文と言っても特別に書くほどのこともない。
しかしながら何も書かないという訳にもいかず、少し、戦前の言葉、現在は死語となっている聞き慣れない言葉が出てきたので並べてみたいと思う。
まず「東雲」、これで(しののめ)と読み明け方の意。
ふん・・・、読めませんね。
「女義太夫」で(たれぎだ)。
「皮の面千枚張り」は(極めて図々しく厚かましいこと)。
「直侍」は天保年間に生まれ寛政五年に小塚原で処刑された片岡直次郎のことで河内山宗俊と共に悪事を働いた人物とある。
「片目」は(めつかち)と読み。
「雪洞」(ぼんぼり)、はいはい、よく花見の時に木から下がっている提灯みたいなものですね。
「住みかえた家は気安し郭公」
「至誠の前には、鬼畜といえどもなびき、かしずく」
などは意味も分かるが以下は解らない。
「検校の妾に顔を棄てに行き」
「浪華の葦も、伊勢で浜萩」
これは灘波で葦と呼ぶ草を伊勢では浜萩と呼び、物の名や、風俗などは、土地によって違うことの譬え。
「棘然」(きょくぜん)は意味分からず。
本文には「棘然として顔を見合わせた」とあるが。
「接穂」(せつほ)、これは繋ぎ目というような意味だろう。
しかし、明治の人は語彙力が高いね。
それなりに古典にも親しまないとこれらの言葉は出て来ない。
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