愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

死んでいない者 滝口悠生

 
毎度のことながらどうも芥川賞受賞作とは相性が合わない。
古くは尾崎一雄の『暢気眼鏡』、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、または村上龍限りなく透明に近いブルー』、池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ』等々。
ただ、松本清張の『或る「小倉日記」伝』はいい作品だった。
 
本書は2015年上半期の受賞作だが、この作品には主人公というものがいない。
更には故人の子供、孫、曾孫、総勢20人余りの登場人物とあって、それぞれの続柄が分かり辛い。
私が最も苦手とするタイプの小説で、いくら読み進めても煩雑さを増すばかり。
 
お通夜の席に同じ目的で集まっているのに、それぞれ共有しない日常と価値観、場に不釣合いな会話。
私も似たような経験がある。
18の年、叔母がなくなり親戚一同、久々に会し火葬が済むまで控室で待っていると、本来なら厳粛なはずの場が、それぞれ近況報告など話合いながら、時に笑い声まで混じり談笑が絶えることがない。
全員が血族とあって、まるで再会を祝しているような不似合いな状況が生まれる。
 
それがどうだ!
係の人に呼ばれ骨だけになった伯母の遺骨を骨壺に入れる段になると先ほどまでの笑いも何処に総員が号泣。
私は最年少とあって言葉数は少なかったが、それ故か涙が止まらずあんな場面は後にも先にもあれっきりこれっきり。
以来、血族が集まる葬儀というのは実に不思議な場面を生むものだというのが私の感慨になった。
 
本書は人の死とは一過性のものであって遺族にとってはまた明日からの日常が待っているかとばかりにお涙頂戴的な場面もない。
子供達にはお爺さんの死など他人ごとのようなもので、我が事に関係なく、まるで遊びの延長戦上にあるような具合だ。
連綿と続いて来た家系、いつの時代もこうやって送られる人と、送る人の接点が切り離される現場に立ち会いながら世代は変わっていくものなのだと思わずにいられなかった。
 

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