ロック界には昔から「27クラブ」というのがあるが、画壇には「37クラブ」というのがあるのだろうか。
岸田劉生も37歳だったと思うが。
天才の夭折は常のことだが、10年とは言わない、後5年の命を与えて上げればどれだけの名作をこの世に残せたことか、人類の損失と言っても過言ではない。
ところで明治以降、芸術家の交遊録というのは常に私の興味の対象。
犬猿の仲だの竹馬の友などを読むのが大の好物。
しかし、これが西欧となると勉強不足でまだまだ知らないことだらけ。
その絵がこれ!
確かにゴッホ自らが描いた自画像に似ている。
何しろゴッホが弟テオに送った手紙は約700通。
二人はどのようにして知り合ったのだろうか?
ロートレックがパリに遣って来たのは1883年。
画商タンギー爺さんとベルナールの紹介で出会ったのも同年。
翌年から日本の浮世絵版画を集め出したとある。
しかし、二人の画風は正反対。
ロートレックは背景には殆ど無頓着で主に人物画がメイン。
戸外であることを示すだけで充分、風俗画家に徹し、一方のゴッホは素晴らしい人物画を残すも基本的には風景画家。
知ってのとおり、生前、ゴッホの絵は全く売れず、唯一の例外が『赤い葡萄園』。
確か、400フランだったと思うがこれも風景画。
ゴッホは人物を描いても、ある特定の女は描かない。
逆にロートレックは特定の女を何枚も画く。
『二十人会展』という展覧会へロートレック5点、ゴッホ6点の絵が展示されるがメンバーの1人がゴッホの絵を非難したためロートレックは猛然と怒りを爆発させ決闘寸前のところまで行ったというから、この事件を見ても分かるように両者の親密度が伺える。
偶然に同じ頃ゴッホも『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』という絵を描いたばかりで肝胆相照らすということだろうか。
ゴッホの最期は知ってのとおりだがロートレックは飲酒の悪癖から抜け切れず幻覚と共に衰弱はいよいよ進み、1899年、精神病院へ入所、翌年、脚の麻痺が酷くなり食事も採れずやせ細るばかり、それでも酒だけは止めなかった。
以後、何度も発作を繰り返し1901年9月9日、波乱の生涯を閉じる。
宿命と言えばそれまでだが、いったい二人の人生は、どうしたら軌道修正が出来たのだろうか。
世界が、いや世間がもう少しゴッホの才能に気付くのが早ければテオの精神的経済的圧迫を防ぐことが出来た。
多くの知人友人、娼婦に囲まれながら誰も過度な飲酒を止められなかったロートレック。
共に37歳という若さで逝った破滅型天才芸術家の典型的な類例を見るようだ。
そんなことを考えても詮無きことか。
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