愛に恋

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ゴッホとロートレック 嘉門安雄

ロック界には昔から「27クラブ」というのがあるが、画壇には「37クラブ」というのがあるのだろうか。
ラファエルロ、カラヴァジョ、ヴァトー、ゴッホロートレックモディリアーニ、そして日本では菱田春草今村紫紅
モディリアーニ今村紫紅の36歳を除いてみんな37歳で亡くなっているらしい。
岸田劉生も37歳だったと思うが。
因みに作曲家ではビゼーの36歳、ショパン39歳が近い、モンローも37歳で亡くなっている。
 天才の夭折は常のことだが、10年とは言わない、後5年の命を与えて上げればどれだけの名作をこの世に残せたことか、人類の損失と言っても過言ではない。
 ところで明治以降、芸術家の交遊録というのは常に私の興味の対象。
犬猿の仲だの竹馬の友などを読むのが大の好物。
しかし、これが西欧となると勉強不足でまだまだ知らないことだらけ。
今回、初めて知ったのがロートレックが描いたゴッホの自画像。
そんなものがあったのかというより、ロートレックゴッホが友人だったということに驚いたのが本書購入のきっかけ。
その絵がこれ!
 確かにゴッホ自らが描いた自画像に似ている。
時に1886年ロートレック23歳、ゴッホ34歳の出会いだったらしい。
以前、岩波文庫の『ゴッホの手紙』3巻をよんだが、はて、その中にロートレックの事が書かれていたか記憶にない。
何しろゴッホが弟テオに送った手紙は約700通。
ともあれ、ゴッホに南仏アルル行きを進めたのはロートレックだとあるから、それほどまでに二人の交流があったと言えるのだろう。
二人はどのようにして知り合ったのだろうか?
ロートレックがパリに遣って来たのは1883年。
画商タンギー爺さんとベルナールの紹介で出会ったのも同年。
翌年から日本の浮世絵版画を集め出したとある。
遅れてパリに遣って来たゴッホ1886年6月、テオと共に新しい住居に移り、その頃から日本の版画類を集め出す。
ゴッホタンギー爺さんを知ったのは86年の夏頃、そして秋にはテオを通じてゴーギャンと知り合う。
セザンヌと出会ったのもタンギー爺さんの店で当時ゴッホは店に入り浸っていた。
ゴッホロートレックの出会いが何月何日とはっきりは分からぬが共に浮世絵熱が高まり同店でよく会っていたのだろう。
ゴッホは広重、ロートレック北斎漫画に興味を持つ、タンギー爺さんを挟んだそんな場面を想像したくなる。
しかし、二人の画風は正反対。
ロートレックは背景には殆ど無頓着で主に人物画がメイン。
戸外であることを示すだけで充分、風俗画家に徹し、一方のゴッホは素晴らしい人物画を残すも基本的には風景画家。
この点、ロートレック北斎漫画を選び、ゴッホが広重の風景画を好んだ要因かも知れない。
知ってのとおり、生前、ゴッホの絵は全く売れず、唯一の例外が『赤い葡萄園』。
確か、400フランだったと思うがこれも風景画。

ロートレックの芸術はモンマルトルという囲いの中で室内情景を描くことで開花しゴッホはアルルという自然の中に美を求める。
ゴッホは人物を描いても、ある特定の女は描かない。
逆にロートレックは特定の女を何枚も画く。
ゴッホがパリでロートレックと再会したのは1890年7月の始め。
『二十人会展』という展覧会へロートレック5点、ゴッホ6点の絵が展示されるがメンバーの1人がゴッホの絵を非難したためロートレックは猛然と怒りを爆発させ決闘寸前のところまで行ったというから、この事件を見ても分かるように両者の親密度が伺える。
その日、ロートレックゴッホをアトリエに招待して見せた『ピアノを弾くディオ嬢』をゴッホは絶賛。
偶然に同じ頃ゴッホも『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』という絵を描いたばかりで肝胆相照らすということだろうか。
ゴッホの最期は知ってのとおりだがロートレックは飲酒の悪癖から抜け切れず幻覚と共に衰弱はいよいよ進み、1899年、精神病院へ入所、翌年、脚の麻痺が酷くなり食事も採れずやせ細るばかり、それでも酒だけは止めなかった。
以後、何度も発作を繰り返し1901年9月9日、波乱の生涯を閉じる。
宿命と言えばそれまでだが、いったい二人の人生は、どうしたら軌道修正が出来たのだろうか。
世界が、いや世間がもう少しゴッホの才能に気付くのが早ければテオの精神的経済的圧迫を防ぐことが出来た。
多くの知人友人、娼婦に囲まれながら誰も過度な飲酒を止められなかったロートレック
共に37歳という若さで逝った破滅型天才芸術家の典型的な類例を見るようだ。
そんなことを考えても詮無きことか。