黒澤さんが勝四郎役を求めて探し廻った結果、功ちゃんしかないと言って決まったらしい。
念のため三船敏郎の生年月日を調べてみると、何と、二人の差はたったの3歳違い。
これには驚いた、どう見たって一回り程は離れているように見えたが、さすがに役作りが上手い。
ところで木村功には、あまり主演作がないが経歴を見るとかなりの本数に出演している。
役者人生としてはかなり恵まれた方ではないだろうか。
こちらからも誰かが清河に向かって歩いて行く。
二人は擦れ違い、少し間をおいてこちら側の男が振り向き言葉を発する。
「清河先生、私です、佐々木只三郎です」
と言って只三郎は自分から先に編み笠を取る。
すると清河は、編み笠を少し上げ相手を確認する。
「おう、君か」
「お久しぶりです。いつもお元気で」
と、短く言葉を交わし清河は自らの編み笠を取るため顎の紐を取ろうとした刹那!
「ふん」と気合を入れた只三郎は抜き打ち様に清河の胴を払う。
それに気づいた清河も半分ほど刀を抜くが深手を負ったまま半回転して後ろ向きになる、そこを見回組配下の三人が順番に袈裟懸けに斬りつける。
ここからはスローモーション撮影で左頬に返り血を浴びた只三郎、即ち木村功が仲間に斬られる清河をジッと見ている。
倒れた清河を見届けるとの三人は直ちに立ち去り、只三郎は死体を見下ろしながらゆっくり立ち去る。
この時に見せる木村功の顔が忘れられない。
人が斬られ、今まさに死んでいく、その場面を見るというのは、正にこういう顔をいうのではないかという程の形相をしている。
今のテレビ時代劇などでは絶対に見ることのできない迫力あるシーンだった。
木村功の経歴を簡単に述べると。
大正12年6月22日、広島県千田町生まれる。
功、三年生の時に後の妻となる梢が同校美術部に入学、二人は直ぐ恋仲になる。
同17年、『ハワイ・マレー沖海戦』で映画デビュー。
18年、突然、文化学院閉鎖、19年2月、功は大竹海兵団に入隊。
20年8月、広島原爆投下の為、父が即死、21年3月に母も死去。
21年10月、俳優座入団。
23年4月1日、長らく梢の父の反対にあっていたがようやく結婚。
54年、社長の不正経理の為、劇団は解散し会社も倒産。
負債は1億五千万円。
そして翌年の9月24日、人一倍、健康には気を使っていたはずの功が、ある朝「一晩中、胃が痛かった」と言う。
56年1月、胃癌発見。
それ以降はスケジュールをこなしながら通院。
してみると存命ならかなりのお歳になっていたわけだ。
また、木村功はあるインタビューに於いて夫婦論をこのように語っていす。
夫婦とは互いにが、目立たない二人でいて一人、一人でいて二人のような間柄でしょうね。水の味というのではなく、自然発酵によって味付けられた良質のワインのようだと思います。したがって真の味が出るまで、ある程度の年月が必要なのは事実です。
その後、癌は徐々に転移、痩せ衰えていく功。
6月30日、夫人は功の耳元で言う。
「功、大好きよ。大好きよ」
7月4日、夫人は妹のお土産のブランデーを瓶のまま口いっぱいに含むと、かかんで功の口にそっと唇を重ねて、少しずつ、また、少しずつ飲ませた。
「功、どうして私を置いて逝ってしまうのよ。あなたは自分の病気を知っていたの?死ぬことも知っていたの?とうとう私に言ってくれなかった。私も、半年功に嘘をついて暮らしてきたんだから、お互いさまね。苦しかったでしょう。待っていまっすからきっと迎えに来てください。待ってますからね、功」
私は、この日の新聞を読んで意外に思ったことを覚えている。
映画『七人の侍』の最も若い侍が一番早く亡くなったことを。
二人は19歳と16歳で知り合ったらしいが以来、死が二人を分かつまでこれほど愛を貫いた夫婦も珍しい。
3人の子供にも恵まれて。
先日、田舎の従姉に電話した時の話し。
旦那を55歳で亡くし、まるで体の半分をもぎ取られたようなショックを7年間も引きずったと言っていたが、そういう状態で生きて行くのは本当に辛かろうに。
梢さんは功が死んだら私も死ぬと言っていたが借金が残り結局死ねなかった。
夫恋し楓もみぢの燃ゆる日は 梢
ところで、木村梢さんは1926年11月6日生まれとあるが、未だ健在のようだ。
肩書はエッセイストとあるが現在はどうされているのだろうか。
更に夫人の実父は作家の国枝完二とあるが、私はこの作家を全く知らない。
しかし、鵠沼というところは余程住みよいのか昔から著名人が多く居を構える。
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