愛に恋

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闇の女たち: 消えゆく日本人街娼の記録 松沢呉一

 
570頁もある大著で、はっきり言って何から書いていいのか分からない。
内容は2部構成で、第1部は「街娼インタビュー」第2部は「日本街娼史」からなるのだが著者が書きたかったのは純粋な日本人街娼が近年減りつつあるため、街娼の戦後史を残したかったとある。
しかし、一口に街娼と言っても総じて売春婦を一括りに扱ってないところが実にややこしい。
 
街娼とは江戸時代では夜鷹、又は乞食淫売婦と蔑まれた女性のことを言うのではないだろうか。
つまり街娼の定義は公娼以外の総ての淫売婦を指すようである。
公娼とは吉原などのように親方や女将さんが置屋などに囲い、身の安全は確保されるが、当然、売り上げの何割かは差し引かれる。
 
対して街娼は、縄張りと仲間内で互助会などもあったようだがピンハネされるこはなく、出勤も自由、体調が悪ければ休むことも出来る。
そもそも売春は人類の歴史が始まると同時に存在し始めた。
当然の話しだが原始時代は婚姻制度がない。
現在のように婚姻が排他的、永続的なのに対し婚姻が無かった時代は結婚と売春の間に明確な線引きはない。
 
一方、柳田国男の説によれば日本の売春は巫女に始まるという。
反対に同性愛は空海が唐から持ち帰って日本で広めたという説もある。
ともかく戦後急速に広まったパンパンという女性たちは、勿論、戦争未亡人や貧困からこの道を選択する以外なかったという女性も居るにはいたが、逆に好奇心、古い因習や束縛からの脱却で家出して上野、池袋などアメリカ兵を求めて街娼になった女性もいたという。
 
街娼と遊郭では、はっきり一線が引かれている。
遊郭とは赤線のことで集娼ともいい、公娼制度では一定の地域で働かなくてはならない。
幕府時代の昔からそういう仕来りになっている。
しかし街娼は何処ででも立てる。
特に戦後、差別用語として出来たのが洋パンと言われる街娼で、堂々と進駐軍と昼間っから腕を組んで歩く姿は、あの鬼畜米英からは程遠い姿に見えたのであろう。
 
国民の中にも戦後、俄かに現れたパンパンに対し強い反感があったようだ。
更に政府とGHQを悩ませたのは蔓延する性病で、これが社会問題となった。
当時、遊郭で働く娼妓は13万ほど居たらしいが、売春防止法が出来るに及んで「赤線従業婦組合」は法の制度に反対して活発の運動を展開していく。
つまりは職を失う彼女たちにとって、この法律は重大な問題なのである。
 
売春防止法は、そこで働く女たちを保護するためのものではなく、性道徳や社会秩序を維持するための法律であり家庭を守る主婦たちの為の法律であったという見方もできる。
昭和24年、風紀に対する世論調査というのが行われているが、大まかに言えばパンパンは規制すべきだが遊郭は社会に必要だと答える人が圧倒的に多かった。
 
しかし逆に朝鮮戦争の特需景気により「パンパンさまさま」の時代もあり、この当時は日本最大の産業でもあった。
少し、個人的な話しを付け加えるが、私は昭和50年頃までは、もう日本に売春婦などは存在しないと思っていた。
当時は名古屋に住んでおり、その昔、名古屋城建造に際して堀川という人工的な川が出来たが、たまたまその近くに引っ越し、その堀川沿いに夜、街娼が立っているのを見た時には驚いた。
 
しかし著者が言うように今日、日本人の街娼に代って多国籍の人種が群れをなして進出している地域を知っている。
私の住んでいる地域からして風俗産業が盛んな所だ。
著者はまるで純粋な日本人街娼が居なくなるのを惜しむかのようにこの本を書き、そのために全国行脚までして戦後の街娼史を書いた。
参考文献は恐ろしいばかりの数で、その労力には頭が下がる。
 
最後に、第一部にあった二人の男娼とのインタビューが面白いので付け加えておく。
 
「オマンコの月賦はないんだから(笑)」
「私はそこの東京芸大の尺八科を主席で卒業したほど上手なのよ」
 

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