愛に恋

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村山槐多全集

そもそも画家村山槐多を知っている人など見たこともないが、私自身、彼の名を初めて知ったのは平成25年、入院先の病床の上だったような気がするが、さて、それすらも定かではなくなった。
健診、食事以外、さしてやる事の無い退屈病に罹っていた私は病床でも読書生活。
 
その折り、何の本だったか彼の経歴が気になり退院後、取り敢えず伝記本を読んでみたのだが、去年、古書市で無造作に置かれていた本書を見つけ悩んだ末に購入した。
何しろ箱入大判二段組で3000円という価格はやはりおいそれと買える代物ではない!
第一、何より私は彼のファンではない。
門外漢の事ゆえ村山槐多が画壇で占める位置がどの程度のものかも知らない。
その私がよりによって何故、こんな畑違いの本を読まなければならないのか。
本人にも解らない!
まあいい、苦痛を伴う本だったが取り敢えず読了した。
 
村山槐多は明治29年9月15日の横浜生まれで没年は大正8年2月20日、23歳に満たない生涯だった。
故に全集といっても全一巻しかない。
しかし、画業以外、文筆にも精を出していたようで、詩、散文詩、短歌、小説、戯曲、童謡、感想、日記、書簡とかなりの量の著作がある。
 
しかしどうなんだろうか!
遺された絵画作品を見ると、本人はピカソが好きだと言っているが、どうも陰影的な色調が強く好きになれない。
色彩に止まらず小説の世界でもオカルト的で常に誰かが殺される。
それは本人も認めているところで、こう告白している。
 
小生は少し病的なる為、サディズムや、食人慾望や屍姦などの病的性欲に人物を導いてしまひ候
 
文学的にはイプセンを目指していたようだ。
槐多は両性愛者で日記には男性とそれらしき場面の記述もあるが、肝心なろころは省いている。
しかし、こと性欲に関しては赤裸々の面もあり例えば!
 
性欲をどう始末すべきかまだまださしせまった事ではないらしい。
 
夜半隣室かららしいerotic vocalが長い間きこえてかなりなやんだ
毒だ、是からは早く寝てしまはう。
 
隣家のerotic sinphonyは今日殊に盛んだ、よほど助平なカップルと見える、昼間、夕方に手ひどく起こるに至っては手痛い、あまり連続する様だったら何とか逃避策を講じないとこちらが参ってしまふ。
 
午後砂丘の方へ行く、嵐の様な色情の群におそはれて実に進退きはまった。
 
ONANISMや通常の情欲は肉体的にさして毒とは見るべき物ではない、精神的にある方向上、毒だ。
 
吸ふものはやらぬ、たゞ mas の慾が時として節制をかくのには降参するよ、こいつだけはにげようとするのが無理だろう。
 
健康な性欲がある頃の槐多は気力も充実しており、こんなことも書いている。
 
かくして自分はあと三十年四十年の運命に定められた時間を持つ
この時間をどう費さうか
与へらえれた金に就いて吉原の入り口で考へる蕩児の様に
私は立ちどまって考へよう
限り知らぬ希望を以て
第一に私のやりたい事は自分を宏大な芸術として完成する事だ
 
概して槐多という人はかなりの自信家だ!
自らを天才だと思っていた節もある。
槐多を死の淵に追い遣ったスペイン風邪の流行は大正8年頃だが、それ以前の大正3年3月22日の日記にはこんなくだりが。
 
何だか今日は一日厭な気持だった。俺は死にたくてたまらない
 
しかし、一転して大正4年5月18日の記述には!
 
光輝ある天才の道を創始しよう
自ら自己を軽蔑した汝よ汝は恥ぢよ
汝はまづ汝を天才だと確信しろ
汝の芸術は少彦名尊の酒だ温泉だ医者だ
多くの人に快楽を供給してやれ
 
やや自信過剰とも取れる文章だが将来の夢に向かって厳しく自分を律しようと戒めの文章を大正6年5月14日の日記に「宣言」として残している。
 
日々何事か仕事する事、その仕事は自分の命の糧を与へ得るものでなければならぬ、又心の領域をきずつけぬ物でなければならぬ
 
霊を曇らせる一切の行為を禁ずる事、例せば飲酒、喫煙、耽色等
 
よき知識を多く吸収する事、知識は浮華なる情欲を調整し真正の快楽を与へて呉れる
 
更に誓いを立てる!
 
時間を浪費せず
金銭を浪費せず
食物は度を過ごさず
決して怒らず
決してしょげず
酒は呑まず
煙草は喫はず
女にはふれず
よく眠りよく起き
悪をなさず
苦痛に負けず
 
同年10月16日
 
一生、妻なんぞなくともあの様な芸術品と一所に居るなら満足だ
働こう、働こう。
 
ところで槐多の命を奪うきっかけとなった例のスペイン風邪だが、日記の何処を見てもはっきりした記述がない。
咳が出るとは言っているが、いつ、どのように感染したのか具体的なことは敢えて避けているようにも取れる。
エゴン・シーレ島村抱月もこの病で命を落とした。
 
大正7年2月7日
さびしい道を追われる犬の様な気持ちがする日だった、いけない、いけない。
 
日記に嘗ての勇ましさが見えなくなる。
日々、体温を計るが目立った変化はなく何れも七度を超えていない。
9月12日、自分の生活法は次の如く定める。
 
一 湯に身を入るゞ事の絶対禁制
ニ 一日三回以上の冷水摩擦
三 興奮する食物飲料の絶対禁制、即ちアルコール成分の禁
四 煙草の禁制
五 夜十時以前就寝、朝七時以前の起床
六 夜の興行物を見る事の禁制
七 色欲の絶対禁制
八 下駄の禁制
九 午食後一時間の休憩睡眠
十 片栗、塩湯の毎日飲用
十一長時間談話の禁制
 
日記は大正8年1月8日で終わり。
すしを食ひかへる、車中女優とたはむる。もう死にたくなった。
 
これが最後の記述!
前年の10月、喀血した槐多は翌年8年2月には綿の入ってない掛布団を羽織って寝ているところを友人に見られ。
2月18日、激しい雪まじりの雨が降る中、外に飛び出し、夜二時頃、草叢な中で泥だらけとなって見つかり20日「白いコスモス」「飛行船のものうき光」という謎めいた言葉を残して旅立った。
22歳と5カ月の生涯、生きる努力をしながらも甲斐なく散った儚い命。
大芸術家になる夢はスペインからやって来た死を齎す風邪の前に文字通り夢として終わってしまった。
芸術家の早過ぎる死は、その才能と共に永劫に失われ、本来この世に出現したであろうはずの作品までも奪ってしまう遣る瀬無いものだ、ただ無形無色のキャンバスを残すのみだ。
合掌!