愛に恋

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拙者は食えん! サムライ洋食事始 熊田忠雄

 
別に戦後の食糧難の時代に生まれたわけでないのだが、我が家は比較的貧乏な家柄。
その所為もあって私がトマト、納豆、フキなどを初めて食したのは小学校も5年になってからのこと。
特に驚いたのは納豆だった。
あまりの臭さに、これはウンコの類ではないかと思ったぐらいだ。
思えばあの頃は、まだ一般庶民にとって海外旅行は夢のまた夢。
新婚旅行と言えば熱海が定番の時代。
海外のことは『兼高かおる世界の旅』を見るぐらいが関の山。
 
そこで今回、取り組んでみた本がこれ。
武士はどのように洋食と格闘したかという面白い題材。
この本によると日本人ほど食べ物に忌避感を持たぬ民族は世界でも稀だとある。
明治になって肉食が解禁されてからというもの、タブーとされる食べ物はなくなり、日本人は何でも食べる雑食系の民族となってしまったらしい。
 
しかし、幕末、洋行した侍たちは洋食に対し激しい嫌悪感と忌避感を覚え、その思いを率直に書き残している。
例えば青木梅蔵なる人の日記にこうある。
 
「パン、牛肉ノ焼モノ様々、コトゴトク嘆息ナシタリ、パンハ別段臭気ナケレドモ何トヤラ気味悪ク、牛ハ猶サラナリ。サレバトテニ日三日此カタ食事トテハ一切イタサズ、空腹モ亦堪エガタシ。
コノ処ヘ至リ、空腹飢餓ニ陥ルコトイカナル事ノムクイカト世ニ馬鹿々々シク、只々嘆息ノハテ、ナミダニクレ、神仏ニ祈ル外ナカリケリ」
 
と悲憤慷慨。
幕府が万延元年の開国後、最初の使節団をアメリカに派遣してから明治維新を迎えるまでの八年間、欧米諸国に渡航した日本人は延べ400名を超える。
トップバッターは日米修好通商条約の批准書交換のため、ワシントンへ派遣された総勢77名。
この時にアメリカのフリゲート艦ポーハンター号に同行したのが有名な咸臨丸というわけだ。
 
洋食を食べ慣れないこともあって多くの武士が不平不満を日記に書いているが、アメリカ側も黙ってはいなかった。
日本側では相当数の日本食を船に持ち込もうとしたが、中でも異臭を放つ味噌と沢庵はアメリカ人の頭痛の種。
通訳を通じて何とか説得するがハワイに近づいた頃、俄かにひと悶着。
 
「日本味噌・醤油ノ樽シミ出テ夷人不機嫌不精也、夷人ノ品ハミナ、フリツキニ入レタレバ、シミ出ル事ナシ」
 
フリツキとはブリキのことらしい。
日本側の不平としては、牛、豚、羊の肉ばかりで魚、刺身などが少ない。
またはパンが多くバターに馴染めない。
 
「塩淡クシテ食スル能ワズ」
 
と、塩味がないことに不満を述べ、更に、赤ワインが飲めない、しかしシャンパンは尋常ならざる飲みっぷりとくる。
故に。
 
「凡世界中食物風俗一様ナル中ニ、我国独異ナレバ、異域ノ旅行ノ難儀ハ筆ニモ尽クシガタキ事ドモナリ」
 
不平は続き、小刀、熊手が使えない。
小刀はナイフ、熊手はフォークのことで、その他にスプーンもある。
また、コーヒーが苦くて飲めない。
それぞれの日記には呼び名を「カシフイ」「カウヒン」「カウヘイ」「茶豆湯」などと散見される。
しかし、福沢諭吉だけはこのように言っている。
 
「食堂ニハ山海ノ珍味ヲ並ベテ、如何ナル西洋嫌イモ口腹ニ攘夷ノ念ハナイ」
 
渡航した日本人は何も武士ばかりではなく下働きの者もおり、中でも青木梅蔵の日記が面白い。
 
「オノレ此時ツクヅク考エルニ御役人ハ拠無キ上命ナレバ栓方ナケレドモ、我等ニ至ッテ種々手ヲ入レ、他人ニ気兼ヲナシ、コノ処ヘ至リ、空腹飢餓ニ陥ルコトイカナル事ノムクイカ、世ニ馬鹿々々シク、只々嘆息ノハテハ、ナミダニクレ、神仏ニ祈ル外ナカニケリ」
 
御役人は上命で仕方ないが我等は何故このような酷い目に遭わなければいけないかと嘆いている。
 
また、汽車に乗った折り、時々停車する理由がトイレのためと知らず。
 
「両便ニハホトホト困リタリ、夫ニ付キ、可笑シキ事アリ。車中ニテ大便ヲ山盛ニ致セシ人アリ」
 
何と、耐えきれずに車中で脱糞したと言うのである。
最後に日本人を驚かせた光景を二つ書いておきたい。
アメリカに到着以来、何処へ行っても熱狂的な歓迎を受けた使節団は連日連夜、日程が組まれ、知事や市長と面会、会食、市内の視察、へとへとになった挙句に歓迎舞踏会。
 
「男女組合イ幾組モ限リ無ク踊ルトハ言エド、只クルクル回ルノミ。能程ニ断テ
(頃合いを見て)各部屋ニ帰リテ伏シケルガ、暁迄ダンス壮ナル由。カカルダンスハ彼ハ(この国では)大饗(格別なもてなし)ナル由ニテ新聞ニモ記シテ誇リタレド、其迷惑ノ事ドモナリ」
 
つまり、日本人は誰もダンスを踊れるものがなく、疲れているのに只、永遠とくるくる回るダンスを見ているだけでいい加減にしてくれと言っているわけで。
次に、彼らがエジプトでミイラを見た時の感想。
 
「最モ驚キタルモノハ昔人ノ身体ヲ歴然トシテ蔵シ、置ケルモノナリ。人体ノ如キ形
ヲ木ニテ制シ、彩色金銀等ヲ施シ、ソノ中ニ人体ヲ薬ニテ浸シテ蔵ス」
 
因みに彼等はピラミッドを「三角山」スフィンクス首塚と言っている。
まあ、とにかく洋行した幕末の侍たちは見るもの、聞くもの、乗るもの、食べるものと全て驚きの連続。
もし、この頃に映写機があったならどれだけ現代人を喜ばせたことか。
それにしても何十日もの船旅で来る日も来る日も食べ慣れない洋食とはいやはや大変な航海でしたね。
 
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