愛に恋

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挿絵画家の鬼才 岩田専太郎

 
昭和期の挿絵画家の最高峰にして天才と言えば、まず岩田専太郎だろう。
今日、この平成の世にあっては彼のような画法を見ることは全く無くなってしまったが、それだけに去って久しい昭和の郷愁を呼び起こす。
親の才能を引き継いだわけでもなく、ましてや遺伝でもないのに、何ゆえあのような才能は開花したのか。
 
岩田家は祖父の代まで徳川家の御家人で父は印刷業を営んでいたが、所詮は武家の商法で家計は傾くばかり。
両親は妹弟を連れて京都に移り、一人、専太郎だけは東京の叔母の家から小学校に通い、卒業と同時に親元へ帰り、図案家、日本画家、印刷図案家などに弟子入りしていたらしいが、18歳の時に単身上京し、キューピット人形の顔描き、がま口の焼き絵、菓子屋の見本描き、千代紙の下絵描きなど職を転々としていたが友人の進めで博文館の挿絵画家して採用されたことが転機になったが大震災で家を焼き出され、再び京都に舞い戻る。
 
当時の挿絵画家の登竜門は新聞小説に載ること。
念願、叶ったのは大正15年、三上於菟吉の連載小説『日輪』に初めて採用が決まったことから生活が一変。
8月、吉川英治の『鳴門秘帖』に挿絵掲載が決まり、一流挿絵画家としての地位を確固たるものにしたらしい。
 
しかし、それからが大変だった。
売れっ子画家となった専太郎は昼頃起床、朝昼兼用の軽食を摂るとトイレに行く暇すらないほど仕事に忙殺され原稿が出来ると、それを持って画室から夫人が玄関に走る。
待っていた女中は駅までダッシュ、原稿は汽車で大阪の新聞社へ。
次第に家計は裕福になり生涯の親友となった川口松太郎もこの時期に同居している。
 
専太郎という人は写真でみると一見、優男でハンサムだが体重が46㌔ほどしかない。しかし、外見に似合わず、酷い癇癪持ちで本来、仲良しのはずの妹と派手の取っ組み合いの喧嘩を始終していて川口をはらはらさせることが度々あり、ある時などは高価で重い蓄音器をおっちらおっちら運んでいって庭に叩き付けたとある。
 
まあ、それはともかく昭和初期、専太郎の給料は当時の大学生の約10倍。
描く絵も時代小説、現代小説、探偵小説から美人画と多岐にわたり、その才能を如何なく発揮しているが、まあ、その筆使いの鮮やかなこと、特に川口松太郎の小説で描かれた時代物は全く見事なものだ。
将に天才の名に相応しい仕事ぶりだったが、軍靴の足音が近づくにつれ、次第に依頼が減っていった。
時局に合わないというのが理由だが、追い打ちを駆けるように田端の自宅も戦災で全焼、この時、同じ田端に在った芥川の家も焼けた。
 
そもそも小説家には文壇があり画家には画壇があるが挿絵画家には受け皿がない。
人気だけが命で陰りが出てきたら後は消えるのみ。
しかし、戦後民主主義の到来と共に不死鳥のように蘇った専太郎に依頼は殺到する。
因みに専太郎は美人画についてこんなことを言っている。
 
「一番描いてみたいと思うのは、永遠の憂鬱を湛えた顔や姿である」
 
永遠の憂鬱ね・・・?
どんな顔のことを言うのだろうか。
ところで、私生活だが夫人とは別居し、収入の全てを女性に注ぎ込み、別れるたびに全財産を投げ出し、身ひとつで去って行く「なしの専太」とも言われていた。
女性のために銀座にバーを3軒も出している。
気っ風がよくて優しくて、決して自分から口説かない、もてる男の神髄を極めた粋な江戸っ子、それが専太郎という男だったらしい。
 
因みに戦後、全てを失った専太郎に声を掛けたのが長谷川一夫で家を失った専太郎は一時期、長谷川と同居しているが林長次郎返納問題で本名の長谷川一夫を名乗るように進めたのが専太郎だとか。
二人の出会いは朝日新聞夕刊の『雪之丞変化』の挿絵を専太郎が描き、その映画化に伴って知り合った二人の交誼は生涯に渡った。
その後は菊池寛賞紫綬褒章を得て、昭和49年2月19日、73歳で永眠。
生涯に残した作品、約6万点。
 

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