愛に恋

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芸術家たちの秘めた恋 メンデルスゾーン、アンデルセンとその時代 中野京子

 
思うに19世紀に現れた天才たちにとって音楽家ほど職業として激務なものもなかろう。
例えば小説家は日々、書斎でものを書き完成したら出版社に持っていけばいい。
画家はアトリエで作業し展覧会を開く、勿論、野外でのスケッチもあるが。
みなが家に籠っているばかりではないのは承知しているが音楽家の大変なところは、作曲してそれで終わりではない。
録音技術のなかった当時にあっては、まずコンサートを開いて多くの聴衆にお披露目しなくてはならない。
 
完成度が高く名声も上がれば自国内だけではなく欧州全土での活動が待っている。
当然のように宮廷や貴族の社交場にも出入りしなければいけない。
出演依頼、作曲依頼と多忙を極め、また、当時の移動手段にも問題がある。
鉄道は敷設されてはいたものの速度は現在とは比較にならず、船、馬車などで移動となると体力的な消耗は大変だったろう。
 
だからというわけではないだろうが、クラシックの作曲家には早死にの人が多い。
ビゼー・36歳
 
彼等天才児にあと10年の命を与えたらと思うと、その早い死が惜しまれる。
また、死因を巡る謎も尽きない。
サリエリによるモーツァルトの毒殺説などは単なる伝聞だとは思うがチャイコフスキーの自殺説はどうなのだろうか?
メンデルスゾーンも死因が特定されていない。
 
さてと、今回の本だが簡単に言えば同時代に生きた3人の天才児の恋愛を扱ったもの、と言ってしまえばあまりにも安直。
即ち、デンマークの切手にもなったアンデルセン
同じくドイツの切手になったメンデルスゾーン
そしてスウェーデンの紙幣になった19世紀最高のオペラ歌手ジェニー・リンド。
国籍の違うこの3人に何があったのか興味がわき読むことにした。
 
まず、その生い立ちだがメンデルスゾーンは1809年2月3日、ドイツのハンブルグユダヤ人の裕福な銀行家の長男として生まれている。
そもそも父親は息子を音楽の道に進ませることに興味はなくあくまでも教養の一環としての習い事で、当然、将来は銀行家にさせるつもりであったが、早くから音楽的な才能を発揮し神童と言われるようになって父もようやく息子の才能に気付き音楽の道に進むことを承諾。
 
しかし、既に19世紀にはヨーロッパ全土でユダヤ人差別の問題は顕著で教育熱心な母親は息子を学校にはやらず家庭教師を付けての勉強、それがまた凄かった。
メンデルスゾーンは4人姉弟だが、5時には起床して各分野の一流専門家が早朝から晩まで教鞭を振るう。
朝食前にラテン語ギリシャの真善美論、朝食後10時に数学、11時にヴァイオリンと
チェロの練習、昼食後、歴史、神学、製図法、古典文学、フランス語、イタリア語、
英語、そしてピアノのレッスン、ダンス、水泳、乗馬と隙間なくスケジュールが組まれていが、天才児メンデルスゾーンはこれらの問題を難なくこなし、数か国語を操り、名文家にしてセミプロ級の画家の才能も発揮、チェスの名手で水泳はコーチより早く泳いだとある。
 
7歳にして作曲、姉はピアニスト、妹が声楽家、弟がチェロと周囲を驚かせ、15歳で4つのオペラ、交響曲、協奏曲、ピアノ曲を完成させている。
更に礼儀作法も一流で見栄え麗しい美少年、家計の心配は全くないという恵まれ過ぎた環境で育った。
 
一方、1805年4月2日にデンマークで生まれたアンデルセンは全く真逆な家庭で育つ。
父親は腕の良くない靴職人、母親は川での洗濯女。
ヨーロッパでは長く階級社会が続き、貧富の差や教育の差が大きく、一端、労働者階級の貧しい底辺に生まれたら、まず脱出は不可能と言われていた時代。
両親は一人っ子のアンデルセンに惜しみない愛情を注いだが祖父、父と二代にわたって精神に異常を来し、11歳の時に父を亡くす。
学業もなく母親の手助けをする気もないアンデルセンは何故か生涯、底抜けの楽観主義を貫く性格になってしまった。
例えば運命に対する楽観、他人の善意に対する楽観、この世は美しいとの楽観などである。
 
最後の登場人物、ジェニー・リンドは1820年10月6日にスウェーデンストックホルムで私生児として生まれ、1歳にも満たないうちに田舎のオルガン奏者をしている、いとこに預けられ、それを最後に母親は行方をくらます。
しかし、孤独を紛らわすために森に入っては歌を唄っていたところを、たまたま通りがかった王立劇場の関係者がその美声に驚いたことから人生が変わって行く。
王立劇場の特待生として入学した時は僅かに9歳。
発声法、語学、演技、ピアノ、バレエ、文学、演劇として修業を積み、図抜けた才能を開花させて10歳でデビュー。
新聞はこぞって「天才少女歌手出現」と書き立て、これまで誰ひとりなしえなかった宮廷歌手の称号を手に入れる。
 
この頃、アンデルセンはというと、コペンハーゲンで3年苦労した後、枢密顧問官のヨナス・コリンという人物と巡り合う。
それが運命の転機となった。
慈父のようなコリンはアンデルセンを引き取り、彼の中の隠れた才能を信じ、コペンハーゲン大学まで入学させ生涯物心両面で援助する。
23歳、王立劇場で戯曲が上演され、彼の天才性は広く世界に広まることになった。
 
では、この三人の天才を引き合わせたものは何であったか。
楽観主義のアンデルセンは、ある日、同業者のグリム兄弟を訪ねる。
こちらが知っているのだから当然、向うも知っているはずというのが彼の論理だが、
グリム兄弟はアンデルセンを知らなかった。
しかし、日を追うにつれて親しくなったグリム兄弟にメンデルスゾーンを紹介され、内輪のパーティではリストとメンデルスゾーンの運命的な出会いもある。
 
その頃、アンデルセンはジェニーの名声に惹き付けられ勝手に押し掛けては面会を強要するという一方的な片思い状態で、メンデルスゾーンに是非、ジェニーの為の曲を書いて欲しいと懇願。
この時点ではメンデルスゾーンとジェニーの面識はない。
メンデルスゾーンは既に妻帯者で子供にも恵まれ何の不住もなく生活していたが、噂に聞くジェニーに会ったことから事態は少しずつおかしな方向へ。
音楽の話しで意気投合した二人は妻も嫉妬するほどの仲に。
 
一方、楽観主義者のアンデルセンは必ずや将来の妻はジェニーだと慕う。
まるでストーカーのようにジェニーの前に現れるアンデルセン
しかし、メンデルスゾーンに会えば会うほど心惹かれて行くジェニー。
運命の歯車が狂いだすのは1847年、健康そのものだったメンデルスゾーンの姉が41歳の若さで脳卒中で急死。
それ以前から体調を崩していたメンデルスゾーンの受けた衝撃は大きく、嘗てのような意欲も失われ病気を繰り返し姉の死から僅か半年後、謎の死を遂げた。
 
アンデルセン42歳、メンデルスゾーン38歳、ジェニー26歳の時である。
以来、ジェニーはアンデルセン「お兄様」と呼び結婚には至らず。
ジェニーが選んだのはメンデルスゾーンが代わりの伴奏者として紹介した弟子のオットー・ゴールドシュミットという音楽院を主席で卒業した人物だった。
天才たちの意外な邂逅と別れ、人生、いろいろですね!
 

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