愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

ロンドン狂瀾 中路啓太

 
568頁もある弁当箱サイズの単行本、時間もかかり、かなり疲れた。
期待と意気込みだけではなかなか読み切れないので、義務感で突破するしかない。
通常、この問題は昭和前期の歴史として重要な課題なのだが、殆ど省略されて、一頁ほどで済まされることが多いが、それを何と568頁のロングバージョンに拡大、これは読まねばと思ったが、どうも最近は体力的に疲れる。
将に読書は格闘技だと言われる所以だ。
 
さてと、本題だが読むのに疲れ書くにも疲れそうな題材か。
ここに取り上げられているのは、昭和5年にロンドンで開かれた海軍軍縮会議と、その後に起きた統帥権干犯、そして濱口首相遭難の問題だが、この時代、日本にとって大正期から続く政党政治の頂点で二大政党による政権交替が憲政の常道だった最盛期。
それが統帥権干犯に端を発し、血盟団事件へと発展し政党政治の終焉に到り、後は歯止めの利かない暴走に発展して敗戦となって行くわけだ。
 
では一体、何があったのか。
まず、ロンドン軍縮会議とは何か?
大正10年、先のワシントン会議で、主力艦(戦艦)、空母の建造、保有数についての制限協定が成立、しかし、補助艦艇(巡洋艦や潜水艦等)については未決のまま、その問題を日・英・米・伊・仏の主要海軍国で取り決めようと集まったのがロンドン会議なのだが、主に日・英・米で紛糾。
 
国内状況はというと政権は民政党濱口雄幸が首相、外相に幣原喜重郎、蔵相は井上準之助海相は財部彪(たからべ たけし)という布陣。
全権代表は元首相の若槻礼次郎
野党政友会の党首は犬養毅
 
会議の結果、対米英比率、六割九分七厘五毛と折衷案が決まり代表団は帰国するが、問題はここから。
条約批准には枢密院の諮詢が必要。
更に国内の抵抗勢力の説得。
条約批准派と反対派の内訳を書いておく。
 
批准派。
 
反対派。
海軍大将伏見宮博恭王、元帥東郷平八郎、海軍軍令部長加藤寛治、政友会党首犬養毅、幹事長、森恪(もり かく)、鳩山一郎頭山満、枢密院顧問官金子堅太郎、伊藤巳代治、平沼騏一郎ら。
 
簡単に言えば対立の構図はこうなる。
批准派、元老、首相、海相
反対派、元帥、軍令部長、枢密院。
 
当然、批准派は反対派の急先鋒、東郷元帥らを説得に回るが功を奏さない。
東郷は国民的英雄にして神様、そして大艦巨砲主義
それどころか不満を顕わにした軍令部では統帥権干犯を持ち出し、国内世論は二分。
明治憲法下では内閣が国務について天皇を輔弼、軍令部長参謀総長は統帥事項について天皇を輔翼し、両者は同等の立場。
尚、軍令部長参謀総長天皇に直々意見を具申出来る帷幄奏上権が与えられていたわけで、今回の条約案は内閣の権限外であり統帥権に干犯していると言い、憤慨した右翼などがテロルを引き起こす動機を作ってしまった。
 
もう少し具体的に言うと、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」というわけだから、憲法に明示されていたわけではないが、軍部の作戦立案や指揮命令は、国務大臣の輔弼すべき事柄にあらず、即ち、内閣、陸海軍部大臣、軍の行政事務、予算編成等について責任は負うものの、作戦、用兵に関しては権限外というわけである。
つまり、軍縮条約批准は政府の権限外、それ故、統帥権干犯になり得るという見解。
だから、それを犯した濱口首相を殺す。
 
そんな時代なんですね。
その後、蔵相井上準之助も暗殺され、政友会の犬養毅も暗殺される。
軍縮、財政の立て直し、健全化を図った濱口総理。
しかし、貧困に喘ぐ国民を救えなかった責任など、どう考えたらいいのか、当時の政局があまりにも混迷して解りづらいが、私みたいな素人には判断が出来ない。
ただ、濱口総理が命懸けであったことは認めたい。
銃弾に斃れたときに言った言葉は有名だ。
 
「男子の本懐だ」
 
最後に著者の経歴を見るに、1968年生まれというから驚く。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位を取得。
なるほどね!
 
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