「悲しくなりますね」
と言っていたのが印象深い。
本当に悲しくなる。
後世の人間にとって忘れられないのは臼淵磐(うすぶちいわお)大尉の一言。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最良の道だ。日本の新生に
先駆けて散る、まさに本望じゃないか」
その臼淵大尉も翌日、散華してしまった。
教育の課程で自ずと違ってきた国家感のずれが生還を期せぬ出陣に爆発するのも無理からぬこと。
決戦を明日に控えるとは、一体、どのような心境なのだろうか。
しかし、近代戦は発達した航空戦力の優劣で勝敗は決する時代へ。
おそらく、艦隊同士の戦いなら大和は無敵だったろうに。
大艦巨砲時代の終焉を自らの手で実証したのに、何ゆえの大和出撃だったか。
制空権が奪われた沖縄への海上特攻。
結果の分かった現在から見れば、あまりにも無謀な作戦ではなかったかといぶかる。
明けて、敵機来襲、前夜の喧嘩が嘘のように戦闘開始に当たっては全員一丸。
平素の訓練通り自己の職分に最善を尽くし倒れていった将兵。
それら尊い御霊の上に現在の平和日本が成り立っているのだ。
大和出撃、上層部は何をどう決断したのだろうか。
「大和を特攻的に使用した度」
「一億総特攻の魁となって頂きたい」
説得に応じ、見事、魁となって散った伊藤整一長官の後を追って神 重徳大佐と草鹿参謀長は作戦の失敗を聞いて自決したか。
否である。
連合艦隊命令は以下の如く。
第二艦隊は、明六日抜錨、七日未明豊後水道出撃、指定航路を南下し、八日払暁、味方特攻作戦に策応して、沖縄島、嘉手納泊地に突入し、敵艦船を攻撃せよ
時に四月六日十六時過ぎること五分、艦隊出撃。
ところで、この本の著者能村次郎氏とは当時、大和の副長だった人らしい。
知らなかったが副長は生きていたのだ。
伊藤整一長官と有賀幸作艦長は大和と共に海に没したことは知っていたが、副長は生き残ったわけだ。
しかし、さすがに海軍大学卒業だけある。
本刊行にあたって20年以上も経つのに、大和の構造や艦内の隅々に至るまでよく記憶している。
著者は言う。
この出撃、万に一つの生還も期し得ない。早くも敵にわが企図を感知された。おそらく死は、十数時間の後に迫った必然の事実である。厳たる事実である。厳たる事実でありながら、心のどこかにそれを肯定しない何ものかがある。
確かに、内地にあって前夜まで普通に過ごしていれば明日の決戦など想像出来まい。
出港前日、総員上陸して肉親と最後の対面。
涙なくして別れ得ぬ場面が何千家族とあったのだろうか。
今、現在の世からは想像出来ぬ悲喜こもごも。
そして・・・!
7日11時30分。
南大東島、海軍見張り所から「敵艦載機の大編隊北上中」との無線報告。
12時15分。
警急警報、総員戦闘配置につく。
12時27分。
左前方130度と右前方210度に敵艦載機の大編隊視認。
距離、25000~26000メートル。
雲高1000メートル、視界3000~5000メートル。
12時35分。
左前方層雲から戦闘機3機、それを皮切りに2機3機と急降下。
敵は260機で雷爆同時攻撃。
急降下と雷撃の交錯。
全砲火の反撃と回避運動。
後世の我々は、それを想像するしか手立てがないが、この世のものとは思えぬ壮絶な戦いの火蓋が切られたわけだ。
全長236メートル。
世界最大の46センチ砲9門。
最大射程距離42,000メートル(東京駅から大船までの距離らしい)
総員3,332名。
敵味方、文字通り火の玉となっての激闘。
12時37分。
最初の命中弾、推定250キロ爆弾2発。
後部電探室に直撃弾、電探室員総員戦死。
12時50分。
第一次攻撃終了。
13時18分。
第二次攻撃開始。
100機以上の編隊。
第二次攻撃隊が去った1時35分。
第三次攻撃隊空襲始まる。
被害の大きかった左舷を集中攻撃。
14時7分。
第四次攻撃機来襲。
そして・・・!
「もはや、傾斜復元の見込みなし、総員最上甲板!」
艦長「副長!、副長はただちに退艦して、この戦闘状況を詳しく中央に報告しろ」
副長「艦長・・・」
「俺は艦に残る、必ず生還して報告するんだぞ」
「艦長、私もお供いたします」
「いかん!、副長、これは命令だ」
大和沈没後、漂流する兵に士官が怒鳴る。
「准士官以上はその場で姓名申告、付近の兵を握って待機、漂流の処置をなせ」
生存者269名。
想像を絶する戦い、ここに極まれりですね。
戦後生まれの私は、この手の本を読むと胸が熱くなる。
あの時代のことを学び決して忘れてはならぬ。
本書は凡そ50年ぶりの復刊。
多くの人に読まれることを祈念して合掌。