一般的に過去を題材にした作品を書く人は歴史小説作家と時代小説作家に区分されると思っていたが解説者によると史伝作家と呼ばれる分野もあるらしい。
初めて聞いた!
蘇峰の『近世日本国民史』や大岡昇平の『レイテ戦記』『堺港攘夷始末』はまさにそのジャンルに該当するわけか。
遠藤周作はこんな人物も書いていたんですね。
解説にもあるが、史伝作家遠藤周作の、この論文調の文章に着いて行くにはかなりな労力を必要とする。
昨今の『沈黙』ブームにあやかって急遽復刊となったような本だが、これを書店で目にするまでは本の存在を知らなかった。
が、未だ読んだことのない小西行長と聞いて俄然、読書欲が湧いたはいいが如何せん当時の宣教師、または学者、教授の学術書が基調になっているだけに荷が重すぎた。
斬首された行長の記録は少なく、遠藤周作は残された僅かな文献を読み漁り自分なりの行長像を作り上げていったものと思われる。
そこには一貫して行長の面従腹背的な人物像を浮かび上がらせている。
言うなれば、自分が勤めている会社が、不正を行っていると知っていても、正義感を貫いて不正を告発するのではなく、生活を守るべく長い物には巻かれろ的な発想が行長の致し方ない人生観だったような書かれ方だ。
キリシタン大名にとっての戦とはなにか。
そのジレンマと葛藤に苛まれた上での戦いだったと言えるかも知れない。
堺商人の子として生まれ決して戦上手でなかった行長が秀吉の命に逆らえず闇雲に進撃を続け平壌にまで到達する。
終生、反りの合わなかった加藤清正と競うように。
話しは前後するが、私の17歳頃の読書傾向は文庫本を三冊ずつ買うこと。
その三冊を読み終わる頃、次の三冊をどれにするか書店に出向く。
そして必ずジャンルを別けて買う。
例えば、純文学、大衆小説、推理小説という具合にだ。
この頃の遠藤周作という人のイメージは『大変だ!』『一・ニ・三』というようなキリスト教とは程遠い娯楽小説ばかりで気軽なイメージで購入していたが、いつの頃からか五木寛之は仏教に、遠藤周作はキリスト教にと宗教色の濃い作品へと移行して行ってしまった。
それを横目に私は彼等二人の作品から遠ざかり今日に至っている。
今少し、他の作品も読んでみようか。
話しを元に戻す。
小西行長の前歴、何処で生まれ、どのように育ったのかは詳らかでない。
しかし、堺衆の血筋を引くことは確かなようで、信長上洛前のこの地は、三好三人衆、松永久秀、細川勢の軍馬で蹂躙されること夥しく、如何に中立を守り封建領主たちの弱点を見つけ、貿易中心の独立した都市として存在し得るか苦心してきた土地柄だったが、それも信長の出現で水泡に帰した。
朝鮮派兵の第一軍総指揮官は行長、第二軍団長は清正という布陣。
文面には二人が悉く対立していく様が多々書かれている。
三成、行長は斬首。
一体、行長の人生とは何だったのか?
無謀に近い明の征服。
軍団長会議に於いてひとり講和を主張して已まなかった行長。
停戦講和が受け入れられないと知るや秀吉の死をひたすら願うようになり、それ以外にこの無益な戦の停戦はないと悟る。
つまり、行長が朝鮮側に説いた説はこういうことらしい。
「仮道入明」
朝鮮に敵意はない。だから明に至る道を開けてくれ。
しかし、そんな道理は通らず朝鮮軍は明に援軍を頼み頑強に抵抗。
あくまでも徹底抗戦を叫ぶ清正との対立も頂点に。
結局は秀吉の死で終焉に。
ところで、撤退後から関ケ原に至る2年間、行長が何をしていたのか確実な資料はないとか。
その行長の処刑は慶長五年十月一日。
群衆は沿道、河原に数万人とあり、行長らは哀れにも鉄の首枷を嵌められていた。
行長、遺書の現代語訳は以下の通り。
今回、不意の事件に遭遇し、苦しみのほど、書面では書き尽くし得ない、落涙おくあたわず、このはかなき人生で耐えられる限りの責苦を、ここ数日来、忍んできた。
今や煉獄で受くべき諸々の罪を償うべく、苦しみぬいている。自分の今日までの罪科がこの辛い運命をもたらしたのは確かである。されど身にふりかかった不運は、とりもなおさず神に与えたもうた恩恵に由来すると考え、主に限りない感謝を捧げている。最後にとりわけ大切なことを申しのべる。今後はお前たちは心を尽くし神に仕えるように心がけてもらいたい。なぜなら現世においては、すべては変転きわまりなく、恒常なるものは何一つとして見当たらぬからである」
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