私が美術の本を読んでいるからと言って、決して絵画に開眼した訳でもなんでもない。
まあ、簡単に言えば、ただ何となくといったところだ。
結局のところ、それほど他意があるわけでもなし、読み終わっても大抵の感想は「ふん・・・、なるほどね!」と言ったところ。
故に、前回に引き続き今日も感想文ではなく気になったところを箇条書きして終わりたい。
現実主義のクールベは「見たことのない天使は描けないといっている」
ドラクロワは「高い建物の上から落ちて来るものを、地面に着くまでに描かなくてはならぬ」と言っている。
ミレーが現れるまではフランスには、殆ど風景画はなかった。
ドガが描く女性の美しさの影響は浮世絵である。
ルノワールが描く女性はみな同じようなタイプである。
セザンヌはあまりに熱心に人物を描くので、時には150回も同じ姿勢をさせて、みんなから付き合い切れぬと飽きられた。
点描法とは一つひとつの色を小さな点で置いていく手法だが、これは大変だ!
アンリ・ルッソーは画面を1㎝四方に区切って、とても丹念に描いていた。
例えばこんな絵。
『要塞の眺め』
だ円形の顔、あんず形の青い目、なで肩、小さい赤い唇、顔を少し傾け、S字状の曲線、モディリアニは人物以外のものは殆ど描かなかった。
ところで、この本は聞き慣れない「ひろしま文庫」というところから出版されている。
執筆者は、ひろしま美術館副館長の大沢寛三(ひろみ)という方。
1913年生まれで1984年出版となっているので、今現在、既にご存命ではないと思うが。
その方が最後の解説でこんな風に書いている。
頭で理解しようとしないで、まず心で受け止めていただきたい。
言うまでもなく、芸術は知的な要素よりも想像力と感性の要素の方が強い。
絵画は言葉を発するわけではないが、絵画言語によって、雄弁に我々に語りかけている。
では、絵画言語とは何か。
それは線、色彩、タッチ、構図などである。
線は非常に雄弁な言葉で語りかけてくる。
更にこんなことを言っている!
鏡は見た儘を絵よりも忠実に再現している。
しかし、鏡に映った像を、誰も芸術だとは言わないのはどうしてだろうか。
そこに写実の限界がある。
つまり、外界を忠実に再現するだけでは絵画芸術ではない。
ものの形を正しく描くのが絵画の目的ではないのであって、絵画とは、そのものによって呼び起こされた感動を描くべきである。
なるほどね!
この人は流石に絵画の造詣が深いだけあって、ただ単に鑑賞力が優れているだけではなく、よく、画家の人物像なども研究している。
産まれた卵は、あくまでも作品であって、まず、卵を産んだ人物とは如何な人間であったか、それらを研究することも大切なことだと言うことだろう。