愛に恋

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探美の夜 中河与一

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本書の発行は1957/1/1と大変古いもので、初版本は一度、古書店で見たことがあるが、少し値が張ったので買わなかったが以前、ある古書市で装いも新たに再販されていたのを偶然目にし、私にしたら殆ど奇跡に近い発見だった。

谷崎潤一郎の女性遍歴を扱った自伝小説で、これが滅法面白い。

初恋の女性とは為さずの仲で終わり、以後、借金をしてまである芸者に入れ込み流連を続け、遊び尽くした果てに、その女性が紹介したのが妹の石川千代子だった。

大正4年、二人は結婚するが反りが合わず、痴人の愛のモデルとなった三女、せい子と浮気をする。

本書に拠れば谷崎がせい子が初めて交渉を持ったのは、15歳2か月とあるが、結局谷崎は三姉妹全員と肉体関係を持ったわけだ。

よく知られている経緯だが、佐藤春夫が千代子と相愛になり、

「君がせい子と結婚するなら千代子をもらい受ける」

といった事情から、谷崎が心変わりして、離婚しないと言ったことに激怒した春夫は谷崎と絶交、それから5年間の空白があり、春夫も結婚して、5年ぶりに谷崎に会う。

その後、春夫を交えて何度も家族会議が開かれ、せい子は去り、離婚した春夫は千代子と晴れて結婚することに。

そして、あの有名な妻譲渡事件が世間を騒がせるわけだ。

3人連名で新聞社、出版社に送った声明書を読んでみたい。

 

拝啓 炎暑之候尊堂益々御清栄奉慶賀候

陳謝 我等三人此度合議をもって千恵は潤一郎と離別致し春夫と結婚致す事と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す可べく素より双方交際の儀は従前の通りにつき右御諒承の上一層の御厚誼を賜度くいづれ相当仲人を立て御披露に可及候へ共不取敢えず以寸緒御通知申上候。

 

潤一郎

千恵

春夫

 

尚小生は当分旅行致す可く不在中留守宅は春夫一家に託し候間この旨申し添へ候。

潤一郎

 

閑話休題

ところで本書の中に「造次顛沛(ぞうじ‐てんぱい)なる単語が出て来るが意味は、

 

とっさの場合。あわただしいとき。また、わずかの時間。▽「造次」は事が急に起こってあわてるとき。また、わずかの間。「造」は、にわかの意。「顛沛」は逆さまにひっくりかえる。また、つまずく意。比喩的に用いられて、とっさのときのこと。
 
とあるが、こんな事を知っている人は今の世で珍しいだろうに。

 さらに初婚の女性が幸せのあまり伊藤左千夫の歌を引いて、潤一郎に聞かせる場面がある。

 

今の我れに偽ることを許さずば我が霊(たま)の緒は直にも絶ゆべし我が命

 

何と言うか、簡単に言えば死ぬほど好きだとでも言っているのか。

そして著者は潤一郎の心境をこう綴る。

 

彼は急に淋しくなりながら、人生のあわただしさと、その生涯の瞬間(たまゆら)もような長さを改めて感じた。

 

これほどの伝記小説をお蔵入りのままとは勿体ない。今日、知る人もなくこのまま消え去るのかと思うと残念至極でならない。文庫化されてないので猶更だ。三度の結婚で見えて来た谷崎の一貫した放蕩で冷徹な芸術至上主義のために泣かされた二人の女。おそらく、これを読む女性がいたら、一転、谷崎嫌いになるのではあるまいか。谷崎に愛されたい、ひたすら愛を取り戻したい、ただ、其の一念でしがみつき、嗚咽し苦悩する初婚、再婚の彼女らの無念を見るにつけ苦しくなる。然し、中河与一は本当に上手い。