愛に恋

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野田日記 野田 毅

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書店へ行って、日記、手紙などの背表紙を見ると必ず手に取る私だが、このシンプルな表紙を見て何のことやら分からず、野田毅とは誰なのか帯を読んでみるに百人斬りと書いてある。

つまりあれか、支那事変の時の将校の日記か。

そんなものが世にあるとは知らなかった、最早買うしかない。

上下二段組なのでかなり読み応えがある。

百人斬りで新聞を賑わせたころは少尉で、相棒と二人して南京までの間、どちらが早く百人斬るか競ったと中学で習ったが、実は眉唾物で、当時の新聞記者が適当に戦意高揚のため書いた、でたらめな記事だと聞いたこともあるがどうなんだろうか。

然し、この日記は昭和12年からの支那事変ではなく、昭和16年、開戦前のビルマに送り込まれた時点から書かれている。

17年2月にはビルマ独立義勇軍陸軍中将に任じられ、開戦と同時に欧米などの植民地になっていた全アジアを解放し、八紘一宇を広めて行くために聖戦と位置ずけ、必ずやその使命を日本軍なら成し遂げることがことが出来るという固い信念のもとに従軍しているようで、気性は少し荒いところもあるが、日記の何処にも過去の百人斬りの話は出てこない。

 

本書が出るきっかけは、本田勝一氏の『中国の旅』で一方的に残虐非道な人間として書かれたことに、実の妹が反発し新聞社や本田勝一を告訴したことに始まり、兄の真実の姿を知ってもらおうと、本日記を公表し世に問うたものらしい。

ただ一箇所、次のような記述がある。

昭和18年9月14日。

 

午前中は歩兵団長志摩閣下のお話があるというので将校全員連隊本部に集合する。志摩閣下が来られた。「オヤ、見たことがあるぞ」中支安慶時代の隣の連隊長だった、あの志摩大佐の顔だ。あの時代に志摩さんは豪傑肌の人だったが、今じゃ品が良くて崇高に見える。閣下の貫禄がついたということか。お話が終わって申告する。「どうだ」「はあ、中支の百二十連隊長をやっておられた志摩閣下ではありませんか」「ウン、東流南側討伐の時初めて会ったのか」「いや、それよりずっと前からですが」「あの討伐で俺の指揮下に入ったな」「ハイ」「どうだ百人斬ったか」百人斬りのことを言っておられるのだろうが黙殺する。何処で誰に会うものか解らないものだ。

 

と、これだけだが、是とも非とも分からず。

ところでこの日記は、満州間島の病院に入院中の昭和18年10月19日で終わり、次に昭和19年12月14日から茨城県水戸の勤務になっている。

その間の内地転勤や郷里鹿児島での結婚を記したノートは野田家の所有を離れているため掲載を見送った、とあるが、これはどういうことだろうか。

つまり損失したわけではなく、他の誰かが持っているということか。

残念だ。

その後は航空隊に配属されたのか、特攻隊を何度も見送っている。

感動的なのは昭和20年4月16日の日記。大阪伊丹飛行場。

 

午後一時、十八振武隊が出発した。伊丹飛行場の部隊は言うに及ばず分廠、日航の女性共も、日の丸の旗を振って送る。並んでいる前を一機一機滑走して行く振武隊の連中は、白い歯が美しくニッコリ笑って片手を上げていった。いよいよ地上滑走、飛行場の反対側の海軍航空隊は白、紫、緑のマフラーを長く風になびかしていた。嵐のような旗のひらめき。嗚呼、悠久の大地に生くべく、また帰らざん出動、胸裏からはほとばしる感動は、堰をきって落とされた滝の如く太平洋の怒涛の如く全身にみなぎり震わした。流石の余も瞼に熱いものが流れて出てきた。その涙は悲哀とか感傷では絶対にない。日本男児として殉国の光栄は、ただただ感泣するところの大なる慶びでなくて何であろう。

 

武士道精神に凝り固まった嘗ての日本男児を見るようで近寄りがたいが、私とてその場に居たら涙なくして見れない場面だろう。

あくまでも勝ち抜くという信念は揺るぎないもので、軍人としてこのような職務に就けば当然ともいえるが、明治以来、先人が営々と築き上げてきた日本が、今、滅び去ろうとしているかと思うとやはり悲しい。

敗戦後、野田 毅少佐は逮捕され中国に送られ銃殺刑になった。