愛に恋

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わが父ルノワール ジャン・ルノワール

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以前にも何かで書いたが、みすず書房などは私みたいな外様が安易に手を出してはいけない本なのだ。

労力、根気、努力、忍耐、読解力など総合的な能力がないとアリ地獄に嵌ったようで、なかなか抜けきれず日数だけが浪費されていく。

もうとにかく長い、長いのだ。

二段組で小さな字は老眼鏡を掛けても読みづらい。

ひと月ぐらいを目途にして読まないと完読できない。

そればかりか、今、何を読んでいるか分からなくなるぐらい紆余曲折が多い。

私も作家の娘などが書く「父の思い出」などは結構好きな方で、これまでもいろいろ読んできたが、これほどの長編は世界的にも珍しいのではないか。

因みに著者は次男のジャン・ルノワール だが、あの名作『大いなる幻影』を作った監督だというから驚く。

だからというわけではないが、登場人物がやたらに多い。

然も、その一人ひとりが父とどのような関係にあったか詳細を極めて書くので、私としては何もそこまで詳しく書かなくてもという気持ちになり、仕方なくだらだら読んでいく始末になる。

自然、読書欲が落ちる。

それでも徐々にではあるが、自転車横転事故から始まるリュウマチの症状、手の変形、体力の衰えが顕著になるにも関わらず、衰えない創作意欲を近くから見ているジャンの心境も事細かに書かれていき痛々しい。

印象派の多彩な画家も登場するが、なかでもセザンヌとは兄弟のように仲が良く、始終二人でキャンバスを持って出かけ、天才同士が並んで描いていたとは微笑ましい。

然し、印象派の画家たちはみな貧乏で個展を開いても売れないことが多き、かなりひもじい思いをしたようだ。

著者は自分が子供の頃に見た画家の特徴なども多く書いているが、ロートレックにかんしてはこんな風に書かれている。

 

肉体的に畸形であるという苦しみの排け口を見つけるために過ぎないのだ。

若い頃事故にあって、小人になってしまい、社交界の女たちも、こん怪物に寄りつこうとしなかったから、娼婦と絵のなかに逃げ込んだというのだ。

この説にも一理ある。こういうさまざまな障害は彼が画家になることを助けた。

 

何分古い本のため、今日では差別用語となっている言葉も使われているが、障碍者となったため、独自の画風を身に着けたという点では、或いは的を得ているのかも知れない。

モネに関してはルノアールが画家になる前、装飾の仕事をまったく止めたとき、彼と一緒に暮らすようになったとある。

 

モネはそういう仕事を手に入れることに関しては天才的だったから、小売商人の肖像を描いてなんとか暮らしてゆくことが出来た。

一枚につき50フランだった、何か月ものあいだ注文が取れぬこともあった。

それでもモネは、やはりレースの袖口のついたシャツを着、パリ最高の仕立屋に服を注文していた。金は一度だって払わなかった。

 

天才にはいろいろ逸話がつきものだ。

シスレーについては夫人のことが書かれている。

 

以前、モデルで私の父のためにポーズしたこともあったし、未来の夫のためにモデルになったこともあった。父は彼女を非常に尊敬していた。

「実に細やかな人でね、とても育ちは良かったんだよ。モデルなどやっていたのは、一家が何かで破産してしまったからなんだ」

彼女は不治の病で床についた。シスレーは感心するほど献身的に看病した。

あれこれ更に細かく心を配り、毎日、彼女が休息をとろうとして座る椅子のそばで過ごした。

「そういう訳で金が飛ぶように消えて行ったね!」

彼女は舌癌でひどく苦しみながら死んだよ。

「彼女の美しい顔は苦痛ですっかり歪んでいたよ、はかないものだね」

 

ルノワールについてはこのように分析している。

 

文学の背後に、おのれを本質的なものへ導くべきものを見出していた。

それは、枝の動きであり、葉群の色であり、それらはまるで彼がそれらの現象を樹木の内部から眺めでもしたかのような緻密な心づかいで観察されている。

私は、これこそ彼の天才に対してなし得る説明のひとつだと思う。

彼は、外部から見たモデルを描かず、そのモデルと一体になり、まるで自分自身の肖像でも描くようにして描いた。

 

ふん・・・、これは難しい観察だな。

何事も外面からではなく、その対象物になって中から外を見て描く。

本当だろうか!

逆に当時、印象派が世間からどう見られていたか、ここに痛烈な批判がある。

 

人物を描く場合は、また、まったく異なっている。その場合目指されるのは、人物の形態や肉づけの表現を表すことではない。固定した線も、色彩も、光や影もなしに、ただ印象を表現すれば充分なのだ。このように異常な理論を実践しようとすれば、幸いにも芸術においてなにひとつ先例のないような、馬鹿げた、気ちがいじみた、グロテスクな混乱に落ち込むのである。なぜなら、これは、まったくのところ、デッサンや絵画のもっとも基本的な規則の否定にほかならないからだ。子供のなぐり描きは無邪気で大真面目で、人々の微笑みを誘う。この一派の素描を見ると胸がむかつき不快を覚えるのだ。

 

まあ、酷評と言っていい。

ここまで言われ、暮らしの種だった肖像画の注文は途絶えた。

官展に出された絵は驚くほどの高値がついたが、彼ら印象派の絵は一部を除いてまったく売れず生活も貧困を極める。

そこで俄然奮起したのはモネで、特に酷評を浴びた「印象と言う風景画では何ひとつはっきりみわけられぬ」という点で、

 

「あわれなめくらどもめ、靄ごしになにもかもはっきり見たいというのかね」

或る批評家が靄は絵の題材にならぬ表明した。

「トンネルのなかの黒人たちの争いを描いてもいいってことになるよ」

こういう無理解を見て、モネは是が非でも、なにかもっとずっと靄のかかったのが描きたくなった。或る朝、彼は勝ち誇ったような声で、ルノワールを起こした。

「見つかったよ・・・サン=ラザール駅だ! 汽車がでるときは、機関車の煙がもうもうと立ちこめるから、ほとんど何も見分けられやしない。うっとりするよ。まるで夢の世界だ」

 

モネが何度も「サン=ラザール駅」を描いているのはこのためだったんだ。

モネは早速行動を起こし、サン=ラザール駅長に面会を申し込み、事情を話、願い通りの条件で絵を描くことが許された。

 

汽車はとめられ、ホームにいる人は立退かせられ、機関車には、モネの気に入るような、煙を出すためにいっぱい石炭が詰めこまれた。モネは、まるで専制君主のように、この駅に腰を据え、一同がかしこまっているなかで何日も絵を描き、あげくのはては、

六点あまりの絵を描きあげて、駅長を始めとする駅員一同の最敬礼を受けながら立ち去ったものである。

 

初期の印象派の人たちは、みな貧困に悩み支え合ったが、後年はあまり交流がなくなり、ジャンの語るところによると20世紀初頭、リュウマチはフランスで流行ったようで、ルノワールの晩年は病との戦いだった。

本作を読むのは苦労したが、近代史の画家には興味が尽きない、その思いを一層深くした感がある。

 

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