愛に恋

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洋画家たちの東京 近藤 祐

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これを読むと近代の画家たちは、上京生活に於いて塗炭の苦しみを味わっていたことが良く解る。

今に名の残る著名な人は、常に衣食住に苦しみ、世間の洋画に対して理解も乏しく悲惨な末路を辿った人が多い。

故に情報量も多く、これはなかなか骨の折れる本だった。

 

先ず、黒田清輝率いる美術学校からは少し離れて曙町時代の青木繁らの貧困生活などから話が始まる。

青木繁坂本繁二郎と同郷の蒲原有明や岩野泡鳴らに加わり詩作をしている、高島宇朗なる人物が『三岸好太郎物語』の中でこんなことを書いている。

 

額ブチ屋磯谷の人がこんなことをいって居る。

かけとりに行った時のことですが、それこそ豚小屋にも負けない様なうす暗い部屋に青木、森田(恒友)、坂本さんたちが寄って何かごそごそやってゐるんです。よく見るうす汚いすり鉢の中から生みそとご飯を交ぜたのをしゃくひだしては食べて居るんです。

驚いたどころか情けなくなってかけもとれずに飛びだしてしまったんですが(昭和2年6月23日東京朝日新聞「名作物語」十七。

 

また坂本繁二郎追想記』の中には、

 

その時分の君の風采は一通りではなかった。汚れて、肩のあたりは破れて、汗臭いただ一枚びらの着物に、ずたずたになった絹袴をつけて、いつも絵具箱をかついで歩いていた。

 

然し、貧困と雖も青木の才能は抜群で、『闍威弥尼(1903年)』『黄泉比良坂(1903年)』『大穴牟知命(1905年)』は第一回白馬会賞を得て、それらを見た蒲原有明「かかる絵が今日まで何処にあったろう」と驚いている。

これまでの日本洋画界には存在しないもので、肖像画や風景画と違って、青木の幻視の産物であり、既に黒田清輝の才能を凌駕していたこともあって、両者の確執はこのあたりにあったのかも知れない。

だが青木は喀血、右肋膜炎をおこし、明治44年3月、東京を去って3年半にして28歳8か月の生涯を閉じた。

死の前、家族に宛てた手紙にはこうある。

 

小生も是迄如何に志望の為とは言ひ乍ら皆々へ心配をかけ苦労をかけて未だ志成らず業現はれずして茲に定命盡くる事、如何ばかりか口惜しく残念には候なれど、諦めれば是も前世よりの因縁にしても有之べく、小生が苦しみ抜きたる二十数年の生涯も技能も光輝なく水の泡と消え候も、是不幸なる小生が宿世の爲却にてや候べき・・・

 

然し著者は、この手紙を深読み出来ず、画才に秀でたといって、人格者とは限らず金銭的感覚、家族への不義理など人間的な弱さを指摘している。

遺作展を見た漱石は津田清楓への書簡で、

 

「青木君の絵を久し振りに見ました。あの人は天才と思います。あの室の中に立って自ら故人を惜しいと思ふ気が致しました」

 

と、青木の夭折を嘆いているが、蒲原有明は誰にも庇護されず派閥意識や私的感情に捉われた卑小な考えの白馬会の豹変ぶりを痛烈に批判する。

 

「かの白馬会の連中は、初めに青木氏に白馬賞を与へておきながら、氏の名聲があがり出してからは、非常に氏を虐待したと云ふことは、如何に辨解してもうち消すことが出来ない事實だ。殊に『女の顔』などは今見ても氏の佳作中の佳作であるのではないか」

 

然し、著者はなかなか公平な扱いをしている。

 

日に日に据傲(きょごう)ぶりを増していく若輩の青木を、まだ三十代半ばの黒田や久米が持て余したであろうことは容易に想像がついた、果たして黒田の視界に、どこまで青木が存在していたのか、正確であったことで知られる黒田の日記は、学費滞納問題の際の、青木との会見をごくごく簡略記す。

 

「午前青木繁来リ同人ニ對スル學校ノ處分決議ニ關シ拙者ヨリ同人ノ意見ヲ聽キ且ツ忠告ス(明治三十七年四月二十八日)」

 

黒田評はなかなか面白く参考になるので著者の見解を引用させてもらう。

 

すでに触れたように、洋画家としての名声を獲得し、美術学校西洋画家のトップに君臨、久米や藤島だの腹心を教授陣に配し、さらには名門黒田家の金看板を掲げ向かうとろ恐れるものなど何もない黒田ではあったが、その唯一の弱さは、あまり絵が上手くないことではなかったか。フランス留学同僚の久米佳一郎も同様であるが、賢明にも早々に学究的な立場へと納まっている。もちろん黒田の帰国後や晩年近くにも、裸婦や花を描いた佳作ないわけではない。だがそのいずれも大黒田の名声にふさわしい力作とまでは言えない。青木と美術学校同期入学で、青木とともに注目された俊英であった熊谷守一が黒田を回想する。

 

先生の黒田清輝は、どちらかというと政治家だから、それはそれで美術学校にはずいぶん役だったのでしょうが、絵はさほど感心しませんでした。青木がばかにするのも、わかる気がするのです。もともとパリで、めくら滅法に先生についたのがよくなかったのでしょう。ともかく、私なども生意気の盛りだし、あまり参考にはならぬという気持ちでした。

 

そして著者は青木に関してはこのように結んでいる。

 

たしかに青木には問題があった。唯我独尊的な資格に加え、他の画学生の画材を勝手に持ち出すなどの実害もあった。しかし青木は何よりもその画才において、少なからず時代を凌駕していたのである。その真価を黒田は理解できなかったのか。理解した上で無視したのか。どちらにしても惜しむに余りあることではないか。

 

と、青木に対して縷々述べてきたが、この後、藤島武二萩原守衛、中原悌二郎、中村彝(つね)、のことが書かれた後で大正元年、第六回文展を見た漱石は、東京朝日新聞に十二回連載の批評文を書いた。

その第十回、洋画家に付いて触れた部分が興味を引きので、これも引用したい。

 

藝術を離れて単に坊間の需要といふ社會的關係から見ると、今の西洋畫家は日本畫家と比べ遥かに不利益の地位に立ってゐる。彼等の多數は隣り合わせの文士と同じく、安らかな其日その日を送る糧すら社會から供給されてゐない。彼等の制作の大部分は貨幣と交換され得べき市場に姿を現はす機會に會ふ的(あて)もなく、永久に畫室にの塵の中に葬むられ去るのである。畫室!彼等の或るものは恐らく自己の生命を葬るべき畫室すら有ってゐないだろう。彼等は食ふ為でなく、実に餓える為、渇する為に畫布に向ふ様なものである。

 

本書は日本で洋画が勃興したころの画家たちの苦悩を知るには、情報量が多すぎる。

一度読んだぐらいでは残像も薄く、記憶に残らない。

今回、ブログを書くにあたって思い出す作業をしているようなものだ。

例えばこんな

 

鴎外が最初の結婚生活を送った上野花園町の家に女中として奉公していたのが村山槐多の母だった。つまり槐多の両親は鴎外の仲立ちで夫婦になっている。

 

また、2010年の写真だが更地になった村山槐多終焉の地まで掲載されている。

よく分ったものだと感心するぐらい著者は実に博識で、夭折、薄命に終わった洋画家の生き様を見ていると何とも儚い。 

貧困、発狂、結核、そして震災、戦災などで失われた作品。

美術界にとっての損失は元より、書き手も哀切の限りを尽くして健筆を揮っているのだろう。 

 

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