愛に恋

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父の縁側、私の書斎 檀 ふみ

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いつだったか、かなり前のことになるが、檀ふみ高倉健と初めて会った時のことを語っていた。

仕事で共演することになった彼女の控室に、突然、高倉健が現れ。

「初めまして、高倉です」

と、入って来たのを見て、檀ふみは思った。

日本人にもこんな人がいるのかという驚きと共に、一瞬にして高倉を好きになったと。

 

そんな檀ふみは火宅の人、檀一雄の娘でありながら、ちっとも男出入りの噂も聞かず、未だ独身。

自由奔放な父親の血はどうなった。

無頼派の人生で男を渡り歩くどころか、至っておしとやかで清楚なイメージ。

身を持ち崩すこともなく、このまま独身を貫き通すことになりそうだが、どういう塩梅で孤閨を保っているのか、さっぱり要領を得ない。

 

とろこで、亡くなった(作家)父を偲んで、追慕の念を著すのは比較的、娘が多い。

それらを見つけては読むのが私の役目で、本書は、転居を繰り返した父一雄の生涯と、一度も生家を離れることなく現在に至った著者が、家の拡張と補修に費やした日々のエッセイで、父が揃えた家財道具に囲まれ暮らす娘、子孫を残さず、老境の境にあって如何様な考えを持っているのか、大きなお世話と思われるが、つい考えてしまう。

 

彼女の場合、どうも知性が邪魔しているように思えてしょうがないのだが。

今まで、小説は書いていないようだが、『火宅の人』ならぬ『家宅の定まらぬ人』と題して檀一雄とその家族を書いたらどうだろうか。

それに応えるだけの文筆力があり、さすがに小説家の娘だと思わせる才能がある。

例えばこんなくだり。

 

何にでも最後の時はある、子供はそうした小さな「卒業」をいくつも経験して、大人になっていく。そうした卒業に式はない。証書もでない。ずっとあとになって、ふと振り返ってみたとき、「ああ、いつの間にか卒業していたんだな」と気づくだけである。

 

話は違うが、以前、30歳ぐらいの会社の後輩に、「大塩平八郎の乱」のことをちょっと話したら、その彼、大阪人なのに「誰ですかそれ」と言われてビックリしたことがある。

それと同じことが書かれていた。

 

「いま京都で『山内一豊の妻』を演っているの」

と言ったら、若い友人に「それ誰ですかぁ?」と訊かれた。

世代間のギャップには、いつものけぞってしまう。

 

これは世代間のギャップの問題だろうか。

それを言うならこれからの日本人はみな「山内一豊の妻」も「大塩平八郎の乱」を知らなくなってしまう。

やはり歴史を勉強することは大切なことなのだ。

 まあ、それはともかく、いったい彼女はなぜ結婚しないのだろうか。

その一端を覗かせる結婚観のようなことを書いているので、少し長くなるが引用したいと思う。

 

みんながみんな「愛」ゆえに結婚するわけではない。独身者として長年にわたって冷静な観察を続けてきた結果、そんな確信を抱くに至った。

もちろん「もう、かたときも離れたくいたくないの!」と周囲の大反対を押し切って、若くして嫁いだ友人もいる。それこそ「命懸けの恋」「真実の愛」だったろう。

友達の中では、彼女が結婚第一号である。しかし不幸にして、離婚第一号にもなってしまった。

「可愛さ余って憎さ百倍」というけれど、煩雑な離婚手続きに向かうエネルギーは、そのぐらい愛し合った者でなければ、生まれてこないのかもしれない。

ほかの友人の結婚は、それに比べると純粋とはいいがたい。「時の勢い」「ことの成り行き」「親からの圧力」「世間体」など、もろもろの条件が一つでも欠けたら、結婚まで至ったかどうか、怪しいものである。

「新生活」の憧れだけで結婚したオンナもいた。新婚旅行先で買う洋食器、カーテンとお揃いの花柄のベッドカバー、ウェディングドレス姿の写真を飾る陶製のフレーム、彼女の場合、そういった幸せの小道具のほうが、ダンナよりもずっと先に決まっていたような気がする。

彼女だけではない、小道具抜きに結婚しろと言われたら、結婚に憧れるオンナの数は、半減するのではないだろうか。

 

まだ少し続くが、これだけを読んでも彼女が如何に物事を冷静に捉え観察しているかよく分かる。

だがしかし、結婚は勢いだという意見もある。

確かにそうなのだが、後からしまったと思わないためには地道な観察も必要で、その結果、待っているのは未婚という二文字。

何とも言い難い。

父のような人生を送ってはいけない、それ故に冷徹な観察眼が勝って今に至っているのか。

どうしても父檀一雄と対比して見てしまうのもやむを得ない。