読書は、ともかく何でも手あたり次第に読めばいいという意見と、くだらないもの、分からないものまで無理して読まなくてもいいという意見があるが、私はと言えば、その中間あたりだろうか。
歴史、評伝、またはノンフィクションの類なら、一応守備範囲なので、大筋、内容も理解できるが、時に、古本市などで、序にこれも買っとくか、なんていう軽い気持ちで手を出し、場合によっては手痛い仕打ちに合うこともある。
今回のそれが『ウンコな議論』という騙しのテクニック。
てっきり私は大便に関するユーモアたっぷりの書物かと思ったら、豈図らんや、哲学書ではないか!
まったく、ぼったくりみたいな店に入ったような気分だ。
「ハーイ、お兄さん安くしとくよ。たったの5000円で飲み放題、触り放題、今なら5000円、5000円、たったの5000円だよ。どうですかまだ帰るには早いよ、らっしゃい!らっしゃい!」
で、入ったはいいが、
「ハイ、ありがとうございます。チャージ料、おつまみ入れて、お会計58600円です」
まったく、遣り切れない本だ。
例えばだ!
屁らず口における発言が屁理屈と異なるのは、後者の場合にはその関連想定の棚上げ合意が存在しないという点である。屁理屈との類似点は、それぞれが、ある程度までは真実に対する配慮の制約を受けていないという点である。この屁らず口と屁理屈との類似性は、屁のカッパという表現からも示唆されるものであり、ここでの屁は屁理屈を特徴づける会話を指し、また屁のカッパということばはおそらくは「屁をパッパとかける」をお上品にした用語である。
さっぱり解らん!
だいたい「屁らず口」ではなく「減らず口」ではなかったか?
嘘であれば必然であるような真でないという信念に基づいてはおらぬ。かような真実への配慮との関連欠如、物事の実態についてのこの無関心ぶりこそまさに、吾輩がウンコ議論の本質と考えるものなのである。
と、これをウンコ議論というらしい。
私は、哲学者の頭の中がどうなっているのか、普通の人よりも皺が多いのか不思議だ。
最後に少し長くなるが、こんな文章を引用しておく。
真実を知っていると思っていない人物は、嘘をつくことができぬ。ウンコ議論や屁理屈には、そうした前提は必要ない。嘘をつく人物はそれにより、真実に反応しており、その意味では真実を尊重しているわけだ。正直者が語るとき、その人物が真実だと信じることしか語らない。そして嘘つきの場合は、当然ながらその人物は自分の発言が偽りだと信じていることが不可欠である。しかしウンコ議論屋にとって、これはどれも保証の限りではない。その人物は真実の側にもいなければ偽りの側にもいない。その目は正直者や嘘つきの目のように真実の方を向いておらず、単に自分の発言で切り抜けるにあたって有益なときだけ事実の方を見ている。自分の発言が現実を正しく描いているか気にしない。目的にあわせて適当に選び出し、あるいわでっちあげるのみである。
以上、お解り頂けたであろうか。