愛に恋

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親知らず

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実のところ、私は実母を知らない。

物心ついた頃には、既に去っていた。

写真一枚残っていない母、今となっては二人の間に何があったのか詳らかにすることは出来ないが、子としては生涯付き纏う両親の離婚だった。

そんなこともあって、昔から「親知らず」という言葉がやたら気になる。

親知らずを抜いた!

よく聞く話ではあるが、最近まで自分には関係ないものだとばかり思ってきたのだが、左下奥、歯のない部分が二週間ほど前から疼き出し、罹り付けの歯科医に行ったところ、レントゲン診察の結果、中に親知らずが埋まっていることが分かった。

で、どうする!

先生に訊いてみると抜かないという。

結構、これは難しいと言うではないか。

痛み止めなど飲んで暫くは様子を見るとな。

なるほど、難しいなら無理に取ることもあるまいて、よした方がいい。

然し、次の予約日まで腫れは引かず、先生の言いようが少し変わってきた。

「良かったら考えてみて」

「先生、良かったらって先生が決めるんじゃないんですか」

「違うよ、ダメオさんが決めるんだよ」

「ええ、僕が決めるんですか」

「そうだよ!」

「どうしよう、僕が決めるんだって!」

と、私は周りに居た歯科衛生士や看護婦にわざと聞いてみたが、みんなはニコニコするばかり。

そして、決断の時、昨日が訪れたわけで、前回の話では次回迄、腫れが治まらないようだったら抜きましょうかと、私は先生に告げたのだが、お約束どおりとでも言うか、やはり腫れは治まらなかった。

「こうなったら抜くしかないな、大丈夫だよ。横に向かって生えてるからそんなに難しくないよ」

という声に励まされたが、どっこい、そうはさせてくれなかった。

つまり、あっちこっち麻酔注射をして徐々に引っこ抜く、然しこれが生易しくない。

釘抜で強引に抜くように力を入れるのだが、相手も去る者、抜かれてなるものかと根っこにしがみ付いて離れない。

途中、何をやっているのか見えないので分からないが、周りの肉を切っているのか、あの手この手で先生は何やら独り言を言いながら、あれ出して、あれ持ってきてと看護婦に指示している。

いつもならあり得ない歯科衛生士が助手に回ってもいる、そういう決まりなんだなと、変なことを考えながら、いつまで続くか俎板の鯉。

俎板の恋ならともかく、一度、口をゆすいでと言われて水と同時に吐き出すと、これまた血の海。

4度ほどゆすいで、再挑戦、然し、どうあっても抜けない。

どうなることやらと心配が先に走り出した。

歯科衛生士も観戦穏やかならず、結果を見守るばかり。

3回目の挑戦で先生も意地になりかけている。

やにわに力が入り、強引に引っこ抜こうとしている。

「うぐっ、うぐっ」

という私の呻きも徐々に高くなっていく。

すると先生は。

「そんな大きな声出さない」

と一喝。

然し、痛いのだ、痛たたた、うぐっ!

血圧は上がり、動悸も激しくなった、その頂点を待っていたかのように、すっぽ抜かれたらしい。

「抜けたからね」

息も絶え絶え頷く私。

「暫くは痛いだろうし、頬っぺたも腫れるから、痛み止め飲んでおいてね」

そして今日、午前の予約とあって、暫くしたらまた行かねばならぬ。

母がいれば、止めてくれるなおっかさんとでも言いたいところだが、そういうわけにもいかぬ。

しかし何だね、あの口の中のドロドロ感。

家に帰ってすすいでみると、まるで血反吐を吐いたような塊りが出て来た。

これから夕食とあって、しっかりゆすいだはいいが、物が喉を通る時の痛みが何とも言えない。

ほっぺも腫れて、色男が台無しになってしまった今朝だった。