愛に恋

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コルト 1851 ネイビー

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30年程前になるだろうか、桜田門外の暗殺現場を訪ねたことがある。
一面、アスファルトでは当時を想像することはほぼ不可能。
世に言う桜田門外の変は、襲撃から決着まで要した時間はたったの3分程度だったとか。
如何にして暗殺は成功しえたのか。
襲撃側は総勢18名、彦根藩士は60名で大老は剣術の達人でもある。
 
事件当日、駕籠の中に引かれていた畳半畳ほどの座布団が残されている。
テレビなどで見ると浪士たちは駕籠に刀を突き刺しているが、それが事実なら座布団に大量の血痕が付着していなければならないが、実際にはそれらの形跡はない。
今一つ、歌舞伎役者の三代目中村仲蔵の日記に、楽屋に出入りしていた商人が江戸城の近くで見たという話しが書き留められている。
 
「今朝、五つ半時(午前9時)、桜田門から中に入ろうとしていた時、丁度掃部様の御登城行列が来たから後から付いて御門へかかる所、そこへ『お願ひのものでござります』と立ち寄ろうとする者あり。そしたらお駕籠の御近習が『ええい、控えろ控えろ』と留め、それと同時に『ドン』と小筒を打ち込んむ音」
 
この証言から判るのは、襲撃者は大老を斬り付けるより先、ピストルで駕籠を撃った。これは当時から言われていたことらしい。
さらにこんな記録も。
藩邸に運び込まれた直弼の遺体を、藩医岡島玄達が検視した報告書。
 
「太腿より腰に抜ける短筒の弾丸痕あり」
 
つまり、胡坐をかいて坐っていた直弼の太腿から腰に、かなりの至近距離から発砲し、体を射抜いたことが伺い知れる。
してみると直弼は首を取られる前に既に歩行困難になっていた。
発砲者の名は森五六郎。
御注進と叫びながら近づき、跪いて低位置かた撃ったと推測される。
記録によると直訴状の下に短筒を隠し持っていたらしい。
ということは、銃声は従来言われていた斬り掛かる合図としての発砲ではなかった。
 
驚くべきは、当日使用された銃が現存するという。
戦後、GHQに没収され近年里帰りした銃こそ、その時使われたものらしい。
銃が入れられてある箱にはこのような但し書きが。
 
「森五六郎義士 直弼公天誅の短筒」
 
しかし何故、水戸浪士がピストルを持っていたのか。
詳細に調べた結果、これはアメリカ製のものを模造した拳銃で製造元は水戸藩
写真は同型のモデル。
制作者は中澤晃敬(あきたか)。
 
仔細は以下のようなことかと。
ペリーの日記には20丁の軍用拳銃をエンペラーに献上とある。
つまりこの拳銃こそはコルト1851ネービー
それを手にすることのできる有力な人物は水戸の老公、徳川斉昭
井伊大老と攘夷か開国かで鋭く対立した張本人。
 
斉昭は攘夷決行のために水戸藩内に本格的な兵器工場「神勢館」を設立し、大砲や鉄砲を国内産として量産していたらしい。
その様子を今に伝える絵図には「小銃制作場」なる建物があり、斉昭は密かにペリーが献上した銃のコピーを職人に造らせ、安政の大獄で失脚した後、家臣にこの銃を渡したとある。
 つまりは大老暗殺の裏で糸を引いていた人物こそは水戸斉昭だったと。
う~ん・・・!