岸田劉生はこんなことを言っている。
「造型美術というものはいつかは失われるものだ」
だとしたら悲しいことだ。
然しそれが現実であり過去、どれだけの人類遺産が失われたことか。
常に芸術作品や重要建造物ばかりとも限らない。
最近、読んだ本の中にこんなくだりがあった。
「惜しいことに近代の悪政によって江戸の水路はほとんど埋められてしまった」
そうなんです!
江戸時代の東京、即ち江戸は世界に冠たる庭園都市。
しかしながら震災と戦災、戦後の高度経済の影で伝統的なものは根こそぎ消え去った感が強い。
滅びの美学とでもいうか、これはひとつの流派みたいなもので、失われていくものに対する愛惜の念。
連綿と継承されてきた日本人の美的感覚は、修正を余儀なくさ、便利さの追求だけが先行してしまったようだ。
せめて、確実に在った昔を思う心ばかりは失いたくはないと思うのは、捻じれた深層心理なのだろうか。
自分にはまったく関係ない出来事なのに見過ごすことの出来ない滅び。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず
探しようのない本元の水。
表棹彰(おもてとうえい)という詩人にこんな一節がある。
若き羅宇屋は辻角に笛吹き鳴らし
懶惰にうるむ眼をあげて、つぶやき去りぬ。
懶惰にうるむ眼をあげて、つぶやき去りぬ。
昭和30年ぐらいまでに生まれた人なら、或いは知っているかも知れぬ。
羅宇屋、ラオヤです。
煙管専門の修理と掃除屋さん。
キセルで刻みタバコを吸っていた父は、ラオヤが来ると私に命じたものだ。
「おい、行って来い」