愛に恋

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大谷刑部吉継と梅毒

戦国武将で好きな人物に大谷刑部という人がいる。
刑部(ぎょうぶ)とは官位の呼び名で従五位下、刑部少輔、本名は大谷吉継(よしつぐ)。
西軍の武将でただ一人、関が原で切腹した人になるが、刑部は合戦当日、身動きもままならないほど病に侵され、一説によれば梅毒とあるが現在では諸説あるらしい。
その刑部が、たかが十九万石の石田三成と、いくら少年時代からの友誼があるとは言え、何故決起に与してしまったのか、相手は250万石の大大名であるのに。
 
三成、たっての懇願にも首を縦に振らなかったが、秘密会談から十日後、決然と立った。
自身の領地は越前敦賀の5万7千石に過ぎない。
よく言われる秀吉茶会での出来事、秀吉が点てた茶に、病を患っていた刑部は茶碗に膿を落としてしまった。
みなが驚く中、秀吉は、
 
「吉継、その茶は上手く点てられなんだ。わしに返せ」
 
と言って茶碗を受け取ると、躊躇わず茶を飲み干した。
刑部の失敗を庇うための行いらしいが一同の者は仰天。
この時の恩義を刑部は生涯忘れなかったらしい。
 
それ故か、行動は早く、諸大名に打倒家康の書状を送り、差出人は三成ではなく西国大名毛利輝元と宇喜田秀家。
毛利家は120万石、宇喜田家は57万石、二人の協力を取り付け、東軍と競えるような陣容を整える。
合戦前日、関が原に入った刑部は、予ねてより噂のあった小早川秀秋の裏切りを警戒し、自らの軍勢を小早川勢の近くに陣を取らせた。
 
慶長五年九月十五日午前八時、合戦の火蓋は切って落とされ、刑部の視力は衰え歩行も困難だが、戦況は家臣から逐一報告させ、西軍は士気も高く戦況も有利に展開したいた。
然し、午後に入り予想していた通り小早川勢の裏切り始まる。
刑部はこれに動じることなく小早川勢を迎え撃ち、ここで押し留めれば戦は勝てる。
 
と、思った矢先、抑えのために残しておいた自軍の四隊が、小早川勢の寝返りに動揺して、刑部の本陣に突進して来た。
形勢は一気に逆転、西軍は総崩れ。
 
刑部 「如何相なった」
家臣 「お見方の負けに御座いまする」
 
すると刑部は家臣を集め、金を分け、すぐさま落ち延びるように支持。
自らはその場で即座に自刃、享年四十二歳だった。
これには後日談があり介錯を勤めたのは湯浅五助と言う人物で、切腹の間際、刑部は五助に言う。
 
「自分の首は敵に絶対渡さぬよう」
 
言いつけ通り刑部の首を埋めていたところを敵方の武将、藤堂仁右衛門に発見され五助は、
 
「自分の首を差し出すので主の首のありかを黙っていてほしい」
 
と懇願。
その忠義心に打たれた藤堂は五助の願いを受け入れ家康に報告しなかった。
現在、関が原にある大谷刑部吉継の墓はこの藤堂仁右衛門によって建てられたとある。
なるほどね、武士は相身互い。
判官贔屓の私としては西軍に勝たせてあげたかった。
日本史の転換点でしたね。
 
話は変わるが、梅毒というのは、そら恐ろしい病だったとみえる。
物の書物によると鼻が落ちると聞くが、ペニシリンが発見される前、この病に侵されるとこのような症状になるようだ。
 

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結核ハンセン氏病、梅毒と昔の人を苦しめた病、西洋医学もなく漢方だけに頼り、今のような医学の進歩が望めなかった時代にあっては本当に気の毒だ。
故に差別も多かったろうに。
もし、膿が入ったと知りながら、秀吉がその茶の湯を本当に飲んだとあらば、
 
「秀吉、褒めて遣わす」