愛に恋

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濁流―雑談=近衛文麿 山本有三

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山本有三の『路傍の石』を読んだのは17歳の時とはっきり記憶しているが、現在、新潮文庫にはこれ以外の作品はないのではなかろうか。
20歳前後の頃は子供を主役とした小説が好きで、下村湖人壺井栄坪田譲治井上靖五木寛之など好んで読んでいたが、山本有三が戦後、政治家になったとか、国語問題で尽力したとか、或いは文化勲章受章者である以外、これといって特別経歴を知らなかったが、例に拠って古書店で本書が目に留まり、これは読まねばと思い買ってきた。
 
余談だが、首相西園寺公望明治40年6月19日、東京・駿河台の自邸に、当代を代表する文学者たちを招待したことがあった。
出席したのは、小杉天外小栗風葉塚原渋柿園森鴎外幸田露伴・内田魯)・広津柳浪巌谷小波大町桂月・後藤宙外・泉鏡花・柳川春葉・徳田秋声島崎藤村国木田独歩田山花袋・川上眉山
ただし、招待状を受け取った20名のうち坪内逍遙二葉亭四迷夏目漱石の3人は出席を辞退しているが、確かに明治文壇を代表する錚々たるメンバーだ。
 
その西園寺の後継者、近衛文麿山本有三の雑談なるものがあるとは、まったく知らなかった。
一般的に近衛公という人は優柔不断な人物とされているが、実際どうなんだろうか。
杉山参謀総長などはこのようなことを言っているが。
 
「会して議せず、議して決せず」
 
その近衛公から昭和19年7月1日、郷里栃木県栃木市疎開していた山本有三「急ぎ上京せよ」という電報が届いた。
3日の朝、参上すると、
 
「君、最近の情勢を、どう見てますか」
 
と、問われたという。
縷々、話を進め訊くうちに近衛はとんでもないことをのたまうた。
 
「それは、暗殺をも辞せずということです」
 
このままでは破滅への道を辿るのは必定、一向に退陣しない東條首相を暗殺するというのである。
この計画には海軍大将岡田啓介以下、何人かの重臣が関わっていたが、うやむやの内に終わってしまった。
当時は重臣と雖も憲兵が尾行に着くような時代。
そう安々と東條暗殺など出来るわけがないが、近衛の構想ではこうなる。
 
「そして、高松さまをいただいて、、大転換をおこなうつもりなんです」
「今までの話で、だいたい、察しがついたと思うが、君に、一つ声明を書いてもらいたいんです」
 
「声明って、暗殺についての?」
 
「そう。それだけに、うっかりした人には頼めないんでね」
 
然し、山本は当然二の足を踏む。
これは命懸けの仕事で、失敗したら自分を含め憲兵に一網打尽。
 
これ以後の記述は「近衛日記」を基に、当時、近衛が何を考えどう行動したかを解説していくわけだが、これが実に面白い。
少し引用したい。
 
サイパン戦以来、海軍当局はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込絶対になしということに一致せるものの如し。即ち、敗戦必至なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、ただ今日はこれを公言する勇気なしという現状なり。
 
まったくその通りだ!
日本にとってサイパンは絶対国防圏の範囲内、サイパンが陥ちれば、事実上、本土空襲が可能になり、もはや海軍力は挽回できず、どうあがいても勝ち目はない。
ここで勇気を以って米国と交渉を持ってほしかったが、どうしても敗戦を受け入れることが出来なかったのだろう。
強力な軍の統率の下、条件が悪くとも無条件降伏だけは避け得たかも知れない。
更に言えば瓦礫となった国土と滅亡だけは見ずに済んだはず。
無念、やるかたない。
近衛日記は言う。
 
現内閣(東條内閣)辞職の場合には直ちに皇族(高松宮を最適任とす)に組閣の大命を下し給う。
 
サイパンが落ちれば、
 
我六十余州はことごとくは空爆圏内に入るべく(略)志那事変以来の消耗の幾十倍、幾百倍に上るべし。
 
と予見しているが、まさにその通りになった。
私も何度か書いて来たが、本当にこの時点で連合軍と交渉に入いる勇気をもってほしかかった。
大和魂が負けを認めることを拒んだのか、本土が占領されるという屈辱を受け入れることが出来なかったのか、それ故、ずるずると負け戦を続け、王手と言われるまで止めることが出来なかった。
ある面、それも解らぬではないが、明治の政治家や軍人だったら、ここをどう判断したのか、是非にも訊いてみたいところだ。
ともあれ本書は、このまま絶版にしておくには勿体ない、なんとかならないもなだろうか。
 
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