マラリアと栄養失調により死線をさまよった劇作家加藤道夫は戦後「死について」でこのように書いている。
死の誘いは既に間近にあった。死ぬなどと云うことは至極簡単なことの様に思われた。唯、ちょっと気をゆるめればいい。精神が生への意志を放棄しさえすれば、それだけで何の苦もなく死ねる、と云うことだけは僕は確信していた。事実、死ぬということ程造作のないことはなかった。毎日、何十人という人間達が、まるで自らすすんでそうするかのように、ころッころッと死んで行った。重病人達は寧ろそうなることを望んでいるのだ。……ああ、それに、あの雨、三ヶ月も四ヶ月も絶え間なく降りつづく雨、雨。
身も心も腐りきってしまう様なあのニューギニアの雨期。……唯肉体だけを生きると云うことは耐えられぬ倦怠以外の何物でもなかった。絶望と死の影があたりを蔽いつくしていた。僕は目前に死と向い合っていた。死に対する恐怖は殆んどなかった。此処では人々は人間社会の因習から遥かに遠く隔たっていた。肉親から、家庭から、あらゆる社会の羈絆(きはん)から。
帰国後の加藤は精力的に活動を再開、そんな忙しいさ中の昭和28年12月9日付で現在の静岡県伊豆市嵯峨沢温泉から妻に手紙を書いている。
こんな贅沢な宿屋にいると毎日苦労している治坊のことを考えて心苦しい。でも、若林の家ではどうしても落着いて仕事も手につかないので、勘弁して下さい。岩波のミュッセだけはどうしても今月中に渡してしまわねばならないので。
来年は必ず小さな家をみつけて引越すから、もうすこし我慢して下さい。来年は必ずいいことがあるように努力します。身体の調子はいいです。十六日の夜には帰ります。風邪をひかないように頑張って下さい。
しかし帰京した後の12月22日の夜、加藤は自宅書斎で、本棚の上段のパイプに寝巻の紐を括り付け、少し腰が床から浮いたような状態で縊死していた。
実に不可解な自殺だった。
三島由紀夫は言う。
「私は何の誇張もなしに云ふが、生れてから加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない」と述べ「心やさしい詩人は、『理想の劇場の存在する国』へと旅立つた」