一杯引っ掛けたあと、浅草六区に芝居を見に行った帰り、二人の女に声を掛けられた。
赤の他人だが、先ほどまで同じ芝居小屋に居た女で西条のことを「やなぎ、やなぎ」と言って呼び止め食事に誘われたらしい。
「色白で肉付きのいい女で、歳は二十七八の黒縮緬の羽織を着ていた」
面白半分に酒の酔いも手伝って、西条はその“やなぎ”に成り済まし女等のあとに着いて行った。
今一人の女は痩せこけた女だったが、食事後に別れ、まだ日も明るいうちから黒縮緬は自然の成り行きのように西条を旅館に誘った。
キツネとタヌキのような話しだが、やなぎに成り済ます西条と、やなぎと思い込む黒縮緬。
当然、ここまで来たら一戦交えるしかあるまい。
その時の様子を西条は書く。
それから二時間、黒縮緬は猫が鼠をいじめるように、さんざんうぶなぼくをおもちゃにした。
こっちも若いし、相手が美人だし、それにスリルもあるのではなはだ愉快だったが、相手はさらに余裕があるだけにいかにも楽しそうだった。
女性の性欲と言っても女であることに今も昔も変わりはないが、大正のその昔にもこういうことがあるってことにやや驚いた。
然し、私がもし“やなぎ”だと思うなら「その後、どう」とか「あの人はどうした」なり、やなぎ関連の話しがあって然るべきところを、それに関しては何もなかったと言っている。
してみると、この女は初手から俺をやなぎではないと知りながら、そう呼んで遊んでいるのだ。だが、底意は、俺をどうするつもりだろう。
すると、初めから黒縮緬の目的はアレだけだったんだろうか!?
あとで黒縮緬について調べたところ、この辺りでは有名な大姐御の女スリと聞いて西条は慌てている。
肩書きはどうあれれ、明治の世に生まれた偉人は、先ず女遊びをしない人と言うのは珍しい。
昔にあってはこれも当然の一里塚。
それをまた素直に書くから怖い顔した先生も隅に置けねとなる。