愛に恋

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幾山河越えさり行かば 

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戦後、GHQからの出頭命令を前に服毒自殺した近衛文麿の伝記小説を30年ほど前に読んだことがある。
その中に近衛さんが好きだった歌として紹介されていたのが若山牧水のこれ。
 
幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく
 
幾山河とは「いくさんが」ではなく「いくやまかわ」と読むのが正しいらしい。
若山牧水といえば石川啄木の臨終に家族以外で立ち会った唯一の友人。
その牧水は晩年、「詩歌時代」という雑誌を自前で発行した。
 
投稿者は当代の人気作家をずらりと配す豪華布陣。
萩原朔太郎北原白秋堀口大学室生犀星高村光太郎等。
創刊号は1冊六十銭だったがこれが全く売れぬ。
 
それ以前、牧水には揮毫行脚で稼いだ莫大な金があった。
全国を旅行して揮毫頒布会を開き、短冊一枚三円、色紙一枚四円、半折一枚五円、一日に二十枚、三十枚と書いて売り、その金で沼津に豪邸を建てたが中腰になって毎日何十枚も書くのはかなりの重労働でもあった。
そこに持ってきて酒、牧水と言えば酒でそれもかなりの大酒飲み。
 
雑誌発行のための金の工面。
投稿作家への原稿料。
窮地に陥った牧水は更に酒に頼り、仕舞いに体はアルコールに蝕まれ手が震えて筆が持てないほどになった。
仕舞に原稿料が払えなくなった牧水は金に代えてアジの干物をみんなに送りつけた。
送られた詩人達もさぞ驚いたことだろう。
 
哀しい哉、牧水。
震えを押さえるためにまた飲む。
肝臓、心臓をやられ血圧も上昇。
死の床に着いた牧水は夫人にこんなことを言っている。
 
「もう1杯飲ましてくれ。そしたらよく眠るから」
 
そして牧水最後の歌は、
 
「酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を」
 
酒だ酒だ、とにかく酒だと歌っている。
追悼文を寄せた河井酔茗はこう歌った
 
君はいのちを
酒に捧げ
君はいのちを
歌に代えぬ
 
そして今、忘れられなくなったこの歌。
 
幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく
 
牧水ほどの才能もなく、近衛さんのように国家を背負っていく気迫も気概もないが、この歌を忘れたことは片時もない。