愛に恋

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鵠沼風景

向田邦子はエッセイの中でこんなことを書いている。
 
思い出というのはねずみ花火のようなもので、いったん火をつけると、不意に足許で小さく火を吹き上げ、思いもかけないところへ飛んでいって爆ぜ、人をびっくりさせる。何十年も忘れていたことをどうして今この瞬間に思い出したのか、そのことに驚きながら、顔も名前も忘れてしまった昔の死者たちに束の間の対面をする。これが私のお盆であり、送り火迎え火なのである。
 
さすがに向田邦子だ。
しかし、それとは別にこのエッセイの中で見逃すことの出来ない記述がある。
 
岸田劉生晩年の作に「鵠沼風景」という日本画がある。
十年ほど前に、売立会でこれを見て一目で気に入ってしまい、身分不相応を承知で何とか手に入れたいとジタバタしたのだが、もう一息というところで値段の折り合いがつかず涙を呑んだことがあった。最近になってこの類品を見つけ、また虫が起って聞いてもらったが、もう私如きの手に負える金額ではなかった。
 
その絵がこれだろうか。
 

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石垣ある道(鵠沼風景)
 
晩年の作とあるので調べてみると大正10年となっている。
向田邦子が言っている絵がこれだとすると晩年ではないが。
劉生の没年は昭和4年
記録では鵠沼の貸別荘へ転地療養を兼ねて移ってきたのが大正6年2月23日。
12年9月の大震災を鵠沼で遭遇し同月18日に同地を去った。
 
ところで、この時期、芥川と白樺派の関係はどのようになっていたのか。
芥川と劉生は面識があったかどうか気になる。
ともあれ、芥川が見ていた鵠沼とはこんな所というわけだ。
鵠沼は、その昔、砥上ヶ原(とがみがはら)と呼ばれ、特に南部―帯は荒涼とした所だった。
 
芥川は大正15年に東屋の貸別荘イ-4号に住み、鵠沼永住を望んでいたようだが、それを果たせないまま昭和2年命を絶った。
私にとっての鵠沼は東屋でしかないので、先年、行ってみたが、辺り一帯は戸建て住宅が立ち並び、当時を知るよすがは何も存在せず、ただ侘しく石碑が佇むばかり。
地元の人とて嘗ての広大な東屋を知るや否や、やや寂しいばかりだ。
東屋が閉業したのが昭和14年9月。