愛に恋

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関屋敏子


宵待草 関屋敏子

竹久夢二という人は確かに詩人としても才能があったと思うが、この詩を基に曲が作られるということは考えていたのだろうか。
おそらく、それはないだろう。
何故ならこの詩には2番以下の歌詞がない。
 
待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ 
今宵は月も出ぬさうな
 
詩が発表されたのは大正2年11月。
そしてバイオリン奏者の多 忠亮(おおの ただすけ)が曲をつけ、大正6年5月12日に初演、瞬く間にに全国に広がっていった。
しかし、今日では多 忠亮なる人物は全く知られていない。
 
昭和13年高峰三枝子の歌でレコーディングされた曲には2番があるが、これは西条八十の補詩によるもの。

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ところで、これを歌っている関屋敏子という女性歌手、彼女のレコーディングは高峰版より早く、昭和10年のものだと思うが、ウィキによると、
 
昭和16年11月23日未明、自宅で睡眠薬により自殺、原因として離婚、うつ病、作曲の行き詰まり、声の衰えなどいろいろと取りざたされた」 
 
とあるが、これは本当だろうか?
私の手元にある資料では以下のように書かれている。
11月24日付けの新聞。
 
声楽家関谷敏子女史は22日午前2時半品川区下大崎1ノ86の自宅で心臓麻痺のため死去した。行年三十八、告別式は26日午後1時から2時まで自宅で行はれ、本葬は女史の郷里福島県安達郡二本松町本町78で営まれる。
女史は御茶ノ水高女、東京音楽学校を経て、大正12年イタリアに留学、歌劇の研究を積み昭和2年11月ラ・スカラ座に出演してボロア音楽大学より、ヂブロマを授与せられた。昭和6年アメリカに渡りハリウッド大野外劇に日本楽壇人として初めて出演、同8年にはイタリア各地で日本人初のオペラ五大歌劇に出演し同9年帰朝、最近は歌劇「巴御前」の作曲に全力を傾注、22日には東大工学部送別会の席上「トラヴィアータ」を歌ったほどで全くの急死である」
 
二か所はど記事に間違えがある。
22日は23日、ボロアはボローニアが正しい。
しかし数日後、死亡原因の訂正が記事となった。
 
「去る23日午前3時頃品川区下大崎1ノ86の自宅で急逝した声楽家関谷敏子女史の死因について、大崎署で調査を進めていたが、29日にいたり自宅作曲室で同時刻に人絹細紐で縊死したものと判明した」
 
動機は「『巴御前』の作曲が意の如く進まず、一部批評家の非難なども気にしていた」となっている。
睡眠薬、心臓麻痺、縊死と死因はともかく、喉を酷使して痛めていたようだが38歳では、まだ若かろう。
 
遺書
関屋敏子は、三十八歳で今散りましても、桜の花のようにかぐわしい名は永久消える事のない今日只今だと悟りました。そして敏子の名誉を永久に保管していただき、百万年も万々年も世とともに人の心の清さを知らしむる御手本になりますよう、大日本芸術の品格を守らして下さいませ。