愛に恋

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憲兵は父を守らなかった

愛知県に小牧市なる所があるが、位置的には名古屋の北にあたり、特に観光名所になるようなものはない。
シンボルと言えば標高86mの小牧山ぐらいで、古くは織田信長がこの地に城を建て、信長の死後、覇権を巡り秀吉と家康によって争われた小牧・長久手の戦いの舞台となったが、現在は山頂に通称、小牧城があるものの実際は小牧歴史館が正しい。
敷地内には青年の家もあり、若い頃、何度かここを利用したことがある。
 
今一つ、この地を有名たらしめたものは戦前、陸軍大将を輩出したことぐらいで、明治7年生まれの渡辺錠太郎がその人、今日、その名が残ったのは昭和10年皇道派の真崎甚三郎に代わって陸軍教育総監に就任したことに始まる。
その後、皇道派青年将校に怒りを買い二・ニ六事件で暗殺された。
ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんは大将の次女で、当時9歳にして事件当日の一部始終を目撃していた。
その和子さんが以前『文藝春秋』に「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記を発表されている。
その一部を引用させてもらうと。
 
一九三二年には五・一五事件がありました。その約三年後の三五年七月に皇道派とされる真崎甚三郎大将が教育総監を更迭され、父が後任になりました。翌月には永田少将が暗殺される事件も起きました。そのような背景がありましたから、父の警護のために自宅には憲兵が二人常駐していました。私と父とで一軒先にある姉夫婦の家に行くわずかな時間にも、必ず憲兵が後ろについておりました。

私が疑問を感じているのは、この憲兵たちの事件当日の行動です。お手伝いさんの話では、確かにその日、早朝に電話があり「憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は黙って二階に上がっていった、というのです。しかし、一階で父と一緒に寝ていた私たちのもとには何も連絡が入りませんでした。私にはその電話の音は聞こえませんでしたが、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなりして逃げることも出来たはずです。
 
しかし、憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていたというのです。
兵士が身仕度にそんなに時間をかけるでしょうか。
また、父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵は、父のいる居間に入ってきていません。父は、一人で応戦して死んだのです。命を落としたのも父一人でした。この事実はお話ししておきたいと思います。
 
今日、事件に関してのあらゆる著書、文献は出尽くしたかと思っていたが、言われてみればなるほど、この二人の憲兵の供述を読んだことがないばかりか、その後の消息も知らない。
この証言から見えてくるのは、蹶起部隊の誰かが憲兵に襲撃の予告電話を入れたのではないかと疑ってしまうことだ。
襲撃部隊は高橋太郎少尉、安田優少尉率いる兵30名。
午前6時、渡辺邸到着。
その後の模様は以下のとおり。
 
裏口から回った一隊が、屋内に侵入すると大将の妻すず子夫人が応対。
安田少尉「閣下に面会したい、案内してください」
夫人「どこの軍隊ですか。襟章からみると歩三ですね、帝国軍人が土足で家に上がるとは無礼でしょう。それが軍隊の命令ですか。主人は休んでおります、お帰りください」
安田少尉「私どもは渡辺閣下の軍隊ではない。天皇陛下の軍隊である。どいてください」
と言ったが、すず子夫人は立ちはだかったままそこを動かず。
襲撃に気づいた大将は咄嗟の判断で、和子さんを部屋の隅の机の下に逃がす。
ピストルで応戦した大将に蹶起部隊は機関銃を乱射。
結果、大将はこのような無慙な姿に。
それが83年前の今日。
果たして当日の、その電話は何を意味していたのか?
誰か、その後の憲兵の消息を追ってくれないものだろうか。
 

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