愛に恋

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機密費外交 なぜ日中戦争は避けられなかったのか 井上 寿一

 
何とも気の重たくなる本だ。
戦後、進駐軍が上陸する前に重要機密書類は陸軍省参謀本部などで多く焼却されてしまったが、満州事変期の外交機密費の資料が残存していた、それを読めってか!
資料には在中国公館と本省の間の往復電報や機密費の領収書が収録されており、謂わば、この領収書から外交機密関係を掘り起こしていくという遠大なもので、まったくご苦労なことだ。
こちらも何から書き始めたらいいか難しい。
まず先に、政界では凶弾に斃れた濱口首相の病状悪化に伴い第二次若槻内閣が発足、外務大臣幣原喜重郎陸軍大臣は南次郎で、関東軍司令官は本庄繁という布陣。
その関東軍満州事変後の昭和6年10月2日、陸相参謀総長に宛てて次のような世論指導に関する意見具申を行っている。
 
「近時政府並陸軍中央当局の言として発表せらるる所極めて不謹慎にして却て世人の誤解を招き将来の対策を誤り軍士卒の士気に影響する所甚大・・・」
 
出先機関である関東軍が政府と軍中央の不拡大方針の発表は「不謹慎」であると非難している。
このような事が、当時、盛んに言われていた関東軍は独立するのかという噂の基になっているのかも知れない。
 
因みに前政権の首相浜口雄幸は銃弾に斃れ、前蔵相の井上準之助も暗殺されている。
昭和6年12月13日、民政党の若槻内閣に代わって政友会の犬養毅が首相になり、昭和7年1月18日、日本人僧侶襲撃事件を機に日中両軍は激突、軍事衝突は拡大し、第一次上海事変と発展していく。
今日、よく知られているようにこれは関東軍の田中隆吉少佐が仕組んだ謀略で、この間、機密費の支出項目は増え、事変下、日本公使館の警備をフランス軍に頼んだために増大、日本軍が劣勢に立たされていた証拠でもある。
3月3日、白川軍司令官の戦闘行動中止命令でようやく停戦となり、更に停戦の条件を具体的に詰めようとしている最中、上海の新公園で白川大将が演説中、式台に爆弾が投げ込まれ日本人が重軽傷を負った。
 
天皇誕生日のテロ事件で、白川大将の傷は思わしくなく翌月逝去。
5月5日、日中両軍は停戦協定に署名。
その結果、両国はどうなったか。
関東軍満州国を固め対ソ戦に備え、対中関係の緊張緩和を求める外務省が主導権を回復。
対する国民党政府は欧米派と親日派が対立、蒋介石は日本との妥協路線を志向する親日派で、反対勢力の弾圧に着手。
 
特に共産党との対抗を優先、しかし日本は親日派への具体的支援を打ち出せず関係修復の成果は上がらない。
他方で現地軍による華北分離工作が功を奏し、国民党政府内で親日派の勢力が没落、日本の外交当局は、防共イデオロギーの結びつきによる、日中の間接的な相互接近に期待を寄せていたが、国民党ではもはや日本に対する不信感が募っていたのだろう。
華北分離工作とは、この地域に日本の傀儡政権を作るようなもので、故に蒋介石の疑心暗鬼を招いた結果の不信感というべきか。
昭和12年2月、外相は佐藤尚武に代わり、中国から帰った使節団は佐藤に対し、こんな報告をしている。
 
「欧米派の勢力強し、九分九厘抗日なり、国家意識は熾烈なり」
 
一方、連盟から派遣されたリットン調査団は白川大将が停戦命令を発した3月3日、宮中午餐会が開かれ、それ以降、何処に行っても接待外交が続き、莫大な経費は機密費から出されている。
陸相荒木貞夫に代わっているが調査団は日本側の世論をよく見抜いていた。
曰く。
 
「日本の対外政策があまりにも国内政局の動きや、国民世論によって左右されすぎているとの印象を受けた」
 
これは、当時のマスコミにも責任があろう。
よく言われていた、
 
満州さえ手に入ればな」
 
という民衆の声にも後押しされていたと思うが。
例えばこんなことが書かれている。
 
大衆は新聞に連戦連勝の情報だけでなく、安否確認の情報を求めた。身近な人々が満州に兵士として赴く。彼らの安否を知りたかった。しかし部数が急伸する新聞の報道姿勢は扇動的になっていく。新聞は大衆の戦争熱を煽るようになる。
 
部数を増やすため、各社は勝ち馬に乗るように大衆を扇動して行ったということだ。
満州事変は中国によって国際連盟に提訴され、リットン調査団が派遣されるわけだが、要は満州国が日本の傀儡政権か否かの問題で、報告書公表前の1932年9月15日、斎藤実内閣のもとで日本は満州国を承認。
10月2日に提出された報告書では、
 
「法律的には完全に支那の一部分なるも」
 
満州国政権を、
 
「現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」「満州に於ける現政権の維持及承認も均しく不満足なるべし」
 
となり、日本は松岡洋右を全権とする代表団を連盟に送り満洲国建国の正当性を訴えたが、翌33年2月24日、連盟総会で投票が行われ結果を不服とし日本は国際連盟を脱退する。
 
運命の盧溝橋の一発は1937年7月7日。
本書は本来、膨大な機密費の領収書を基に、その外交と軍事の両方から盧溝橋事変に至る最悪のケースを回避出来なかったものか、その可能性を探っているのだろうが、私にはこの民族的対決が必然的なものだったのかどうか答えなど出しようがない。
 
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