愛に恋

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烈士と呼ばれる男 中村彰彦

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昭和45年11月25日、学校から帰って来る道すがら、知り合いのお姉さんから突然、生涯忘れることの出来ない一言を投げ掛けられた。

 三島由紀夫が自殺したって、切腹したんだって!」

私の反応は「・・・」

あまりに若い私は三島とは誰なのか知らなかった。

その三島とやらがどうしたというのだ?

中学を卒業する頃に至って三島が小説家ということは分ったが、何をどうしたかったのか、また何故割腹なのか、以前、分らぬままに取り立てて、それ以上の興味も湧かず、さらには三島文学の難しさもあって追求することもなかった。

 

併し、20歳を過ぎ、三島像の骨格が少し見え始めるに至って、三島が遺した作品よりは三島由紀夫自信に興味を持つようになり、何冊か伝記本など読んでみた。

記憶だけで書いているので間違いがある点はご容赦願いたいが、本名は平岡公威(きみたけ)で、ペンネームの三島由紀夫とは『野菊の墓』で有名な伊藤左千夫のような名前を付けたいという願望から取られたものだと、何かに書いてあったと思うが。
父親は戦前の日本領だった樺太庁の長官。

 

三島は川端康成と並んで最もノーベル文学賞に近い位置にも居たはずだが、もし、ノーベル賞を受賞したとしても、やはり、あの事件は起こしていたのだろうか。

三島らが人質に取った東部方面総監益田兼利陸将と言う人は、旧帝国陸軍の軍人で陸大を主席で卒業、終戦時には同僚の自決に立ち会うほどの気骨ある人だった。

その益田陸将が制止するのを無視して三島は腹を掻っ捌いた。
関の孫六介錯をしたのが森田必勝だったが、一太刀で三島の首を落とせず、更に二太刀目を振るったがそれでも首は離れず、悶絶を打って苦しむ三島の首を刎ねたのは古賀浩靖だった。

 

血だらけになって落とされた首の写真を見たことがあるが、切腹とはこういうことかと、いつまでもその写真を見入っていた。

 

直後、森田も割腹して、その首も古賀が一太刀で刎ねた。
これらの経緯から、どうしても森田の自伝を読みたかったが、併し、25歳の若者がとった行動には迫れなかった。
森田が死ぬ必要性が分からない。
だが三島が遺した言葉は良く理解できる。


このままいったら「日本」はなくなつて、その代わり、
無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、
抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう。
それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気になれなくなつてゐるのである。

 

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