1895年
何と言っても日記や手紙などは、本人が書いているだけあって第一級資料なのだが、書き送った全ての手紙を読むのはかなり骨が折れる。
現在ではメールやラインなどがあるので、あまり手紙を書くことがなくなったが、仮に書いたとしても、多くて便箋5枚から10枚あれば充分だと思うが、時にゴーギャンは興が乗ると、とにかく長い、いや、どうしてもこれだけは言って置かなければと決めたら長くなるのか、これでは送られた方も大変だが、読み手の私も大変だ。
その手紙内容を大まかに分けると、哲学的な芸術論と金銭に関する問題が多く、読み進めていくうちに、こんな言葉を思い出した。
天才ゆえの傲慢は許容する、というのが、まず文明社会の不文律なのだ。
ともあれ、ゴーギャンの芸術論も少し書いておきたい。
芸術は抽象なのだ!自然を研究し、それに血を通わせるのだ。そして、その結果として創造ということが重要になってくる。それが神業、巨匠たちの創造に到達する唯一の道なのだ。
うん、何となく解るような!
ゴーギャンは前途有望な弟子を一人要請しだしたとして、エミール・ベルナールを挙げているが注釈としてこのように書かれている。
させたと主張して、互いに譲らず1891年、遂に決裂。
そのベルナール宛て1888年12月の手紙。
ヴィンセントと私は意見が合いません。絵に関しては特にそうです。彼はドオミエやドオビニイ、ジェム、大ルソーなど、私には我慢できない絵描きを悉く賞賛して、アングルやラファエルや、ドガなどの私の好む画家はすべて嫌いです。喧嘩をしないために私は、「班長殿、あなたは正しい」と答えるようにしています。
ともあれ日記には金の催促が多い、
契約している画商から金を送ってこない。
友人が送ると言っていた金が以前届かない。
あの絵を売れ、あの絵はいくらで売れた、その金はどうなっていると何しろイライラしている。
更に妻メットとのやり取りでストレスが堪り、自然、手紙も長くなるが、対する妻の返事の短さにまた鬱憤が堪る。
二人には5人の子供がおり、養育費の問題で妻なりの不満があったようだ。
追い打ちを懸けるように視力の低下と島での借金。
次第に評価が上がり、絵も売れ出しているのに一向に生活が楽にならない。
これはいったいどうしたことか?
タヒチには婚姻法というものがないのか?
13歳といえば日本ならまだ中学1年ではないか。
その子を現地妻って親の承諾もさることながら、これではロリータ趣味と言われても仕方あるまい。
まだ、毛も生え揃わず胸の膨らみも乏しい子供じゃないか!
1893年8月、一先ずパリに帰り精力的に展覧会を開く。
その時もインド系とマレー系のハーフだという10代の少女、アンナを囲っていたというが、それが『ジャワ女の像 アイタ・パラリ』この絵の少女か。
この作品はパリに帰る旅費とアトリエを借りる費用のために売られ、その後、ゴーギャンが動けないでいるうち、アトリエの品を持ち出してアンナは行方不明になった。
友人に送った手紙には。
すべてが不愉快で、不潔なヨーロッパに、逆らいながら住む気はなくなった。
その要因の一つとして、1894年の春、海岸を散歩している時、ゴーギャンの異様な服装と、猿を連れて歩くアンナの様子が水夫たちの眼にとまり喧嘩になった、その時負傷した足の傷が生涯に亘ってゴーギャン苦しめる。
1895年11月の友人に送った手紙を見ると!
毎晩のように不良娘たちが私の寝室に侵入してくる。昨日は、そのうち3人で用をすませた。こんな出鱈目な生活はやめて、真面目な女を家において一生懸命に仕事をしたいと思っている。それほど、私は生気を感じ、以前のようによい仕事をしたいと思っているのだ。
これはどういうことだ!
「毎晩のように不良娘たちが私の寝室に侵入してくる」
タヒチ娘はヨーロッパ人に飢えていたとでもいうのか。
よく解らない。
妻メットとの最終的な破局は1897年6月、最愛の娘アリーヌが肺炎で死んだという知らせが来たことで決定的になり、二人は、この日を境に手紙を書くことがなくなった。
その後、大作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を描き上げ、アリーヌを失ったショックから失意のうちに、砒素を飲んで自殺を図るが分量を誤り未遂に終わってしまった。
《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》
1899年3月12日 兄ダニエル宛の手紙を見ると、またこんな記述がある。
君に手紙を書いている今、私のヴァヒネ、私が貧乏しているにも拘わらず、彼女は私と一緒に暮らすためにやってきたのだ。
注釈にはパウラ・ア・タイのこと、彼女の年齢は13歳6ヵ月で、この手紙を書いた翌月に子供を出産しているが、この子はパウラの二人目の子で、一人目は生まれて数日後に死亡。
いったい、ゴーギャンはどういうつもりなのだ。
13歳の少女が趣味なのか、南国にはもっと豊満な女性はいくらでもいるだろうに!
だんだん腹が立ってきた。
しかしゴーギャンが絵画というものをどう見ていたのかも書いておきたい。
絵画では描写するより暗示することに努めるべきで、他でこれをやっている例は映画だ。時として、私の絵は難解だといって非難される。なぜなら、人々は私の絵に説明的な面をさがすが、そんなものはないのだ。この問題に関して、どんなに長く喋っても、確実なことは少しもわからない。事実それでいいのだ。
思うに、優れた画家というのは、かなり拘りを持ち、思想、哲学、宗教、歴史と、自分がどうあるべきか暗中模索を繰り返しているように思う。
それはいい、芸術家として当然の悩みの坩堝だ。
しかし、繰り返すがゴーギャンのロリータ趣味はどう解釈したらいいのか。
記録によると1901年、53歳の時に14歳の愛人、マリー・ローズ・ヴァエオと内縁関係を結び、翌年、彼女は娘を出産。
一体、全体、アンタは何を考えているのだ!
13歳と14歳ばかりではないか。
中年男が中学生に子供を産ませて何が嬉しい。
普通、健全な大人はそんな子供に欲情はしないはず、どういう了見なんだ、ゴッホだってそんな真似はしないぞ。
そんなことを考えていると、ゴーギャンという人間は本当に信頼に足る人物なのか疑わしくなってくる。
事実、ゴーギャンが妻メットに宛てた76通の手紙は本書に総べて掲載されているが、どうしたわけかメットの返信はただの一通も発見されていない。
妻や子供を顧みず、芸術一筋に生きた、エゴイズムの固まりのようなゴーギャンをどう見たらよいのか?