愛に恋

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夢二と久允:二人の渡米とその明暗 逸見久美

 
翁 久允(おきな きゅういん)などという作家の名をこれまで聞いたことがないが、竹久夢二と深く携わった人物だとか。
著者の逸見久美は久允の娘さんで日本近代文学研究者、現在92歳。
本書は2016年発行とあるが、先日の阪神古書ノ市で、この際だからと籠に入れたはいいが、よく考えたら誰が読むんだというような代物だった。
 
長く渡米中だった久允が夢二を知るそもそものきっかけは、兄が博文館に就職した記念に夢二の『三味線草』を送ってくれたことに始まる。
絵と詩と文に魅力を感じた久允は友人らに盛んに吹聴していたらしいが、帰国してみると、夢二は日本のジャーナリズムからすっかり影を消していた。
そればかりか悪評も盛んで、落ちぶれ「乞食同然の夢二に同情」、憐みをよせたようだ。
だが、当の夢二はプライドが高く誰に対しても不愛想で卑下慢的で過去の栄光と天才意識が拭い切れなかったようで、久允はそんな夢二に対して書く。
 
夢二の絵は夢二の絵として後世にも親しまれるに違いないのだ。彼に天才があるのだ。天才だから、変な俗人から排されるのである。私は彼を葬ろうとする目に見えない彼への運動の裏をかいて、彼を支持して来たのだが、何とかして彼の都落ち的な境遇を引き戻してやれないものかと複雑な気持ちを湧かした。
 
昭和6年5月7日、予てよりの夢二画復帰念願だった世界漫遊へ二人はハワイ経由で旅立った。
旅費全額は久允が持ったが、そんなことは夢二の念頭になく、あるのは途方もない妄想。
 
夢二はアメリカに来たら、世界に赫々たる名声を放ってるだらうところの自分に対する万国人は、芸術家に対する礼儀をもって、賞賛の言葉と、歓迎を投げてくれるだらうことを夢みてゐた。
 
さらに夢二展を開けば、
 
三浬も四浬も世界中の人が夢二の絵を見たさに続く。東洋の「大芸術家夢二くる」で騒ぐ。彼は雲上のアーチストとなって下界に君臨する。絵画の大小がエンゼルのやうに四散する。巨萬の財は水のやうに流れ来る。彼は王者のやうな気もちを充溢して、芸術の都、巴里に入る。
 
こんな夢想的なことを本当に夢二は考えていたのかと、久允は思ってみたと書いているが、しかしアメリカで夢二は殆ど無名だった。
そればかりか8月7日、サンフランシスコで思わぬ事態に出くわす。
久允が日米新聞の労働争議に関わり、社長側について解決を図ろうとしたのに対し、夢二は労働者側の久允批判に乗せられ、久允と絶縁、独自の制作と展覧会活動を始め、その後、ひとり欧州を周り、台湾に行き結核を発病する。
久允は夢二との別れに際し以下のように書く。
 
今日二十二点の画を領収したることに依り今日までの貴兄に立て替へたる船賃其他一切の費用等の解決を致し今後何ら関係無之候也。
 
と、夢二のあまりの身勝手さに嫌気がさし絶縁したが、著者はこのように纏めている。
 
夢二の行動は一般的な常識から外れた天才意識の中でのみ許される自己的な歩みであったと言えよう。こうした人間性を見抜けず、自己の意識の中でのみ天才無二を捉えて同情し、その奇才に陶酔せんばかりに熱中し、その画才復帰できるものとのみ思いこんだところに久允の誤解と甘さがあったといえよう。
 
はて待てよ、夢二とはこんな非常識な人だったか!
渡航費用を全額負担してもらい、自らは天才気取り、自ずと絵は売れ莫大な金が入る。
恩義を忘れ天狗になり誰に対しても不遜な態度、事実なら誰でも不快に思う。
ところで先に、
 
「帰国してみると夢二は日本のジャーナリズムからすっかり影を消していた」
 
と書いたが、その原因を記しておきたい。
大正4年、夢二42歳の時、お葉と書生が関係し、そのため書生が自殺未遂を起こした事件があったらしいが、お葉はショックで倒れ、4月4日から金沢郊外深谷温泉で静養することになる。
5月、山田順子の著書『流るるまゝに』の装丁を夢二が依頼されたのを期に、二人は接近、お葉は、それに耐えきれず家出とある。
 
その頃、順子の郷里秋田地方を二人で旅行していたことから、夢二の所属する短歌グループ春草会の同人等は順子を非難、この件に対し、夢二の反省を促す声が高まり、これがスキャンダルとなり夢二の人気は一気に凋落していったようだ。
女出入りの激しかった夢二は、結局、女で躓いた人生になったのか。
 
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