愛に恋

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特高 今こそ私は言える 小坂慶助

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昭和11年7月2日の夕刻であった。連日の酷暑に九段下の内堀から吹き込む涼風に、ホッと一息入れているところへ、代々木の陸軍刑務所長から電話が掛かってきた。
 
「麹町憲兵分隊の小坂曹長であります」
「私は刑務所長だが、実は相沢中佐が、どうしても、小坂曹長に会わしてくれと申し出ているのだが、都合を付けて来て貰いたいが、都合はどうだろう!」
「どんな御用でしょうか?」
「それは判らないが、実は、明朝死刑を執行するので、最後であるから来て会ってやってくれ給え」
「承知しました」
 
これは昭和28年に出版された小坂慶助という人が書いた『特高』という本の冒頭。
昭和10年8月12日、陸軍省内において軍務局長永田鉄山少将を惨殺した相沢中佐を逮捕したのが著者で、事件当時は麹町憲兵分隊曹長
 
余談だが冒頭、殺害された永田軍務局長の遺体写真が掲載されているが、過去、何度も見てきたこの写真、どういうわけかこの本の写真だけは鮮明で当時の状況を生々しく伝えている。
特に作法に従って止どめの一刀を咽喉部に突き刺した痕が痛々しい。
世に言う相沢事件とは、教育総監の座にあった真崎甚三郎大将が、8月の定期異動で勇退が決まったことに端を発している。
真崎大将を皇軍唯一の尽忠至誠の軍人として、信仰的に崇拝していた相沢中佐は、その人事権を持っていた軍務局長永田鉄山少将を局長室において刺殺してしまった。
 
陸軍の三長官は、陸軍大臣参謀総長教育総監で、当時の軍内派閥は真崎、荒木貞夫両大将を中心とする皇道派林銑十郎陸相、永田軍務局長を中心とする統制派の相克が激化していた時代。
真崎大将が統制派の軍務局長に更迭されたと思った相沢中佐は犯行を決意。
それは二・二六事件の前年のこと。
長い公判記録を読むと特別弁護人となった満井佐吉中佐は以下のようなことを言っている。
 
「如斯シテ今ヤ国家ノ手足タル農村ハ疲弊困憊シテ起テナクナッテ居ルニモ不拘都市ノ資本家財閥ハ如何デアリマセウカ之等ノ三十倍カラノ富ヲ蓄積シテ居ル事実ハ今日統計ノ明カニ示ス所デアリマス」
 
二・二六事件で決起した安藤輝三大尉も同じような趣旨のことを言っているが、彼の部隊はみな貧しい東北出身の青年たちであった。
当時、よく君側の奸などという言葉が使われたが、元老、重臣、財閥が槍玉に挙げられ、重臣らを殺害したことはともかく、確かに情において忍びないものを安藤大尉には感じる。
弁論には記述にこのような記述も。
 
「三井、三菱、安田、住友ノ四大財閥ヲ以っテ百三十四億七千七十万五千円ト云フ莫大ナル数字即チ我ガ全日本ノ財力ノ六割二分五厘ト云フ富ヲ独占シテ居ルノデアリマス」
 
そこで弁護側はその元凶である三井財閥の総帥、池田成彬氏の証人喚問を要求している。
永田局長の久里浜別荘は池田氏が送ったものと結論づけ、内大臣の斉藤実海軍大将と共に証人出廷を繰り返し要求。
そして、
 
「結局ニ於テハ財閥ノ頤使(注:頤使とはいしと読む、顎で人を使うの意)ニ甘ジテ日本ヲ統制経済下置ニ加之不知不識の間ニ財閥ノ注文通リニ動カサレテ皇軍ヲ全ク私兵化セシムルニ到ツタ」
 
つまり統制派は財閥と結託して日本の経済を牛耳り、皇軍もそのために私兵化させようとしていると皇道派は見ていた。
故に諸悪の根源たる永田軍務局長を斬らねばならぬ、とこういう論理だろう。
  
裁判長 「夫レデハ本日ハ此ノ程度ニ止メマシテ次回ハ二月二十七日午前十時」
 
しかし、その2月27日を待たずにニ・ニ六事件勃発。
証人喚問を請求されていた斉藤実内大臣は襲撃され即死。
何れにしても事件に携わった当事者本人が書いた記録を読むのは得がたいことだ。
 
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