まず、この本の解説を書いているのは文芸評論家の保田與重郎で、これが何ともややこしく難しい。
私は哲学が大の苦手、そのような論法で書かれてもよく解らない。
そればかりかゲーテの『ウェルテル』にも比較されるほどの作品とある。
ことの馴れ初めは、主人公が七歳年上の「あの人(人妻)」のお母さん営む京都の下宿屋で学生生活を送るうち、そのお母さんが亡くなる。
作者は主人公にこう言わせている。
「わたしたちは熱愛という言葉を知っています。だが考えてみると、実際にはまだそれを知らぬような気がして来たのです。わたしたちはこの地上に生まれて来て、愛についての空虚な言葉の幾つかを覚えてしまいます。
しかし実際はそんなことは何も知らないのだと思います。わたくしたちは愛しました。しかし二人で疲れはてるほど抱き合ったことも愛しあったことも決してなかったのです。そしてわたくしたちはたったあの人が七つ歳上であったことのために、こんな運命の状態におかれているのだと思いました」
この間、二人が出会って23年の月日が流れ逢瀬もほんの数回。
あの人が転居の度に新居を見つけ手紙を渡す主人公だが、人妻の家に上がり込むことに関しては殆ど世間体というものは何も書かれていない。
与謝野晶子の感想。
「心と心とで堅く抱き合った二人の恋人が、いつも一歩手前で辛くも踏み止る痛々しい姿が忘れられぬ」
「それは恋人らの聡明のゆえである」
保田與重郎は。
「作中人物の運命や思想や態度に思いをいたし、これを想像して、批評することは、ロマンスや小説の読者の一つの積極的な読み方である」
23年間、肉欲を満たすことなく人妻を心底愛し続ける。
崇高な男女間の愛は斯くありき、果たして可能だろうか。
今のように携帯もなければメールもない、会えない時間が愛育てるのさ目をつぶれば君がいるということか。
募る気持ちも今以上だということは想像に難くない。
しかし、いくら恋愛の形態が変わったとはいえ23年!
ストイックな恋は少し耐え難い。
私なら三日と持つまい(汗)
小説だからといえばそれまでだが、高潔な気持ちで人を思うことは尊ばれるものだろうか。
世俗的な色恋というよりは、宗教的な神秘性を帯びている。
或はもっと若い時に読んでいれば違う感想を持ったかも知れない。
だがしかし、流麗、巧みな表現で終局に導き、ようやく事は成就しそうになった矢先の「あの人」の死と言うのは切ない。
天の恋人に届けと打ち上げた花火が夜空に消える時、あの人が摘み取った夕顔と思う心情が心を揺さぶる。