愛に恋

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生きて行く私 宇野千代

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人生此の方、いろいろな女性に出会って来たが、宇野千代のような豪快な女に巡り合ったことはない。
4回の結婚歴、生涯で家を13軒も建てた細腕繁盛記とでもいうような自叙伝的な本。
思い立ったが吉日とは将に彼女のためにあるような言葉だ。
 
例えばこんな場面。
当時、北海道に住んでいた彼女は新聞に投稿した懸賞小説が第一位に選ばれたことを知り大金が入る。
それを期に新たに書いた小説を中央公論社に送りつけ、当時の名編集長、滝田樗陰からの返事を待つ。
自信を持って書いた作品なのに、待てど暮らせど返事の来ないことに苛立った彼女は夫に断り単身上京。
中央公論社に乗込み滝田樗陰に迫った。
 
「あの、あの、私のお送りした原稿は、着いてますでしょうか。もう、お読みになって下すったでしょうか」
 
すると樗陰は、
 
「ここに出てますよ。原稿料も持っていきますか」
 
その時の感情を彼女はこう書いている。
 
「忘れもしない、それは大正11年の四月十二日であった。「中央公論」の五月号に、私の小説「墓を発(あば)く」が載っている。私はぶるぶると足が慄えた。目の前に投げ出された、この夥しい札束は何であろう。あとで正気に返ったとき、その札束が私の書いた原稿百二十二枚の報酬である三百六十六円だと知ったとき、私は腰も抜けるほどに驚いたのであった。私は樗陰に礼を言うのを忘れて、表へ飛び出した。「そこいらを通っているみなさん、あなた方は何も知らないでしょうけど、私はいま、その先の中央公論社から、もの凄い原稿料を貰ってきたばかりの、偉い女流作家なのですよ」と、大声で叫び出したいのを堪えて、走って行った」
 
さもありなん。
その感動が伝わってきそうだ。
苦労を重ねた末のこの報酬。
しかし問題はその後だ。
この時、紹介されたのが第2位の尾崎士郎で勿論二人は初対面。
 
「ぼ、ぼくが、二等賞の尾崎士郎です」と言ったときの、そのおどけたような吃りの癖まで、思いもかけない感情の陥し穴に、私を誘い込んだのであった。いや、その吃りの癖が誘い込んだのではない。私はその瞬間に、ながい間、意識することもなしに過ごして来た渇望のようなものが、ふいに、堰を切って、溢れ出すような錯覚に襲われたのであった。
 
こともあろうに千代は、そのまま北海道に残してきた夫の元へは帰らず、尾崎と同居することを決めてしまった。
モンロー、バーグマン、ヴィヴィアン・リーも驚くような離れ業ではないか。
後の東郷青児との馴れ初めも信じられないような話で、当時、東郷は愛人と心中未遂事件を起こし世間を騒がせていた。
男女がガス自殺する場面を書いていた千代は、その後の展開をどう描いたものか悩みぬいた末、未遂経験のある東郷に電話して事情を話し、
 
「そういう差し迫った場合に男はどういう行動をとるのか」
 
と助力を願った。
東郷からの返事は、今から仲間内で飲み会があるから来ないかと誘われ、出かけて行ったはいいが、この時も、その日の内から東郷と同居することになったというからビックリではないか!
 
またある時などは、小林秀雄から聞いた岐阜の根尾村の薄墨桜の話しに興味を持ち、翌日にはその桜を見に、村まで出かけて行ってしまう行動力。
何かにつけ、思い立ったら直ぐ行動に移さないと気がすまない性格で、男でも家でも旅でも猪突猛進。
そんな彼女の男性遍歴を評して黒柳徹子は、
 
「あたし、あんなに、寝た寝たと、まるで昼寝でもしたように、お話しになる方と、初めてお会いしましたわ」
 
と大笑いしていたとか。
文壇交遊録の話しも面白いが、まだ女性の断髪が流行る前に髪を短く切って世間を驚かし、それを真似て萩原朔太郎夫人もショートヘアーに、そしてダンス仲間の若い男と駆け落ちしてしまった。
してみると朔太郎のあの名作『帰郷』はこの後に書かれたということか。
しかし朔太郎に対する千代の評価は言い得て妙。
 
「高い格調を持った哀切極まりない叫びは、何に喩えたら好いのか。こんな詩魂を持った詩人が、日本にまたと一人あるものか」
 
全く持ってその通りだと思う。
最後に文庫化にあたって一筆書いているが、その中に、
 
「私はこのごろなんだか死なないような気がしている」
 
平成八年新春とあるが、宇野千代はこの年の6月10日に肺炎で亡くなり98歳だった。
明治、大正、昭和、平成と生き、多くの知人友人に先立たれ、逸話には事欠かなかった彼女。
 如何な気持ちで一世紀近くの生涯を送ったか。
芸術家の人生はドラマチックであればあるほど面白いが、彼女のような破天荒な一生も終わってみれば愉快極まりないというところだろうか。