愛に恋

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狭山事件の真実 鎌田 彗

3か月ほど前、所要で大阪環状線京橋に行った時のこと、駅前広場で道行く人に向かってやおら演説している中年男性を見て、非常な違和感を持った。

男性の横には看板を持つ人、さらに横断幕を掲げる人など、いつもこの場所には何かと社会に向かって異を唱える人が現れる。
 
駅改札を出て右方向に向かうとイオン、その間の空間地帯に献血車が止まり、こちらも献血のお願いを毎度声高に叫んでいる。
この辺りは相当な人出で確かに演説するには持って来いの場所だが、例えば以前、こんな人も居た!
大きな袋から手書きの用紙を何枚も取り出して、今日は何を宣伝するかと思案の挙句取り出したのがこれ!
 

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雇われているのか慈善事業か分からぬが、こうして日がな一日立っているのだろうか。
一向に解せぬおばちゃんだが、世には実に変わった人もいる。
 
さて、問題の演説だが、「狭山事件は冤罪」だと訴えていた。
これには驚ろくだろう!
今時、狭山事件などと言ってもどれだけの人が知っているのだ。
私ですら朧月夜みたいなもので、思えば遠い昭和38年5月1日に埼玉県の狭山市で起こった誘拐殺人事件で、当時、親戚の家で大人たちに交じってこのニュースを見た記憶が僅かにあるばかり。
 
当時、世間の耳目を集めていた、吉展ちゃん誘拐殺人事件が3月31日に起り、周囲の反応から両事件の大きさは分ったが、いつかしら歴史の間(はざま)に消えて、余程興味ある人でなければ有罪も無罪も分かったものではない。
それを、道行く人に向かって「冤罪だ、冤罪だ」と叫ぶばかりでは能がないではないか。
現在、高齢者以上の人でもない限り、はっきりとした認識もなく、案の定、暫く見ていた私の前を誰ひとり耳を貸す人とてなく、事件以来、55年の歳月は虚しく風化の時を刻み、毎度、変わり種のおじさんの演説とでも捉えているのか、流れる人並みに逆らわず、過ぎ行く無関心の顔を見て虚しくなりはしないのか。
 
若者の視点から捉えれば、私にとっての大逆事件のようなもので、さすがにそれを広場で咆哮するには無理があろうし、こんなやり方では誰も興味を持つまい。
まして司法の決定が覆るわけでもない。
では、私はどう思っているのかと言えば、下山事件松川事件帝銀事件名張毒ぶどう酒殺人事件、狭山事件と一応は読んでみたが、下山事件轢死体は自殺ではなく他殺が濃厚。
 
帝銀事件の平沢貞道に関しては無罪を主張、名張毒ぶどう酒殺人事件の奥西勝に対しても無罪を主張する。
狭山事件石川一雄はどうか、やはり無罪ではないかと思う。
リンドバーグ愛児誘拐事件の犯人リチャード・ハウプトマンにしたところで冤罪のまま処刑されたのではないかと、これは取り返しのつかないことだ。
 
しかし、有罪無罪、どちらの側に立っても確かに疑問は残ると言えなくもない。
もし、自分が犯人で逮捕され、尋問、拘留、裁判と続けば、真犯人でありながら虚偽報告をして無罪を主張、何十年も司法と闘うエネルギーは通常の人間ならあり得ないだろう。
 
逆に、どの裁判長にしろ冤罪かもと疑いつつ処刑場送りにするはずはない。
ここに矛盾が生じる。
正義を追求する場にあって、検察、弁護人はあくまでも真っ向勝負。
 
犯人とされる石川一雄昭和14年1月14日生まれで、事件は昭和38年5月1日に起き5月23日逮捕される。
罪名は高校1年生中田善枝さんを被害者とする強盗強姦殺人事件。
石川氏は被差別部落出身で事件当時、ほとんど読み書きが出来なかった。
小学校もろくに出ていない貧困家庭に生まれため、弁護士と検事の役割も良く解っておらず、当初は検事の言うがままに同意し余罪もあることから懲役10年くらいは覚悟していたらしい。
 
故に死刑判決を受けても刑務官に、その日行われた読売ジャイアンツ国鉄スワローズのオープン戦の結果を聞いていたようだ。
または、一家の稼ぎ頭の兄が疑われたことで自ら進んで偽証したとも書かれている。
つまりは、
 
文字を読み書きできなかったことが、自分の運命を人に任せっきりにした。供述調書をつくらせ、それを自分で読むこともなく、投げやりにして、ろくに確認しなかった。その口惜しい想いがあった。
 
また、
 
誘導というよりは、取調官のほうから口述するようにして自供調書がつくられた。
その記録された内容を、一雄が確認することはなかった。
 
更に、脅迫状を運ぶのに、脅迫する相手の家を知らないかった等々、著者は疑問点をいくつも並べているが、裁判所の原則「疑わしきは罰せず」のはずが「疑わしきは罰する」という極端な事例になってしまった。
ともかく、帝銀事件名張毒ぶどう酒殺人事件、狭山事件と量刑を巡って争っているわけではなく真犯人かどうかの問題、検察はあくまでも死刑、弁護側は無罪、一見、不毛の論争にも見えるが、真実はひとつ、どこまで行ってもキリがないでは済まされない、実に悩ましい問題だ。