愛に恋

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湖の南 大津事件異聞 富岡多恵子

 
三井の晩鐘として有名な三井寺に行ったのは、はて、いつのことだったか?
40歳を幾つか手前の頃だったと思うが。
明治の20年代、ここには「御幸山西南戦争記念碑」という立派な石碑が立っていた。
 
何故、鹿児島から遠く離れたこの地に石碑があったかと言えば、西南戦争で大津第九連隊の戦死者が東京に次いで多かったことに由来しているが、現在では理由は定かではないが、その場所よりさらに10分ほど登った所に移築されているらしい。
20代後半の頃、旅の途中、大津でこんな石碑を偶然見た。
 
 
石碑にはこう書かれている。
 
「此附近露国皇太子遭難之地」
 
ロシア皇太子ニコライを斬り付けたのは滋賀県守山署詰三上村駐在所勤務、津田三蔵巡査36歳。
三蔵は三重県津藩の藩医の次男として生まれ廃藩置県後、10年の兵役を終えた後は巡査として伊賀や滋賀県の間を転勤していたらしいが、兵役中は西南戦争に従軍し負傷して勲七等を授与されている。
その事件現場は思いのほか道幅が狭く、当時の記録にはこのようなことが書かれている。
 
道幅二間半(約4・5メートル)、警備として道の両側に警官160余名と大津第九歩兵連隊がびっしり並び、その後ろに見物人たちが押し寄せ、その間を皇太子以下の人力車40両以上が走って行く。
 
この通りは昔の商店街で、当日は多くの見物人でごった返していたことだろう。
列は知事、接伴員、随行員が先導で、その後ろに皇太子、いとこのギリシャ王子ゲオルギオス、有栖川宮、ロシア公使、ロシア東洋艦隊司令官の順で最前列から最後尾までの長さは約180メートル。
その時、明治24年5月11日、突然、警備に付いていた津田巡査は走り出てニコライの頭部に一太刀あびせた。
 
人力車から飛び降り、驚いて逃げるニコライを追った津田を車夫が引き倒し、その背中をギリシャ王子が杖で乱打。
津田が落としたサーベルで、車夫が首と背中を切りつけ捕縛された。
負傷した津田の刀傷を思いのほか重く、背中はともかく首の切り傷は重症で、首の付け根の辺りに半円状、長さ14センチ、深さ5センチの深手だった。
 
この事件を知ったきっかけは確か、佐木隆三の『勝ちを制するに至れり』で、時の大審院長児島惟謙(これかた)が判決を巡って政府と鋭く対立したもので「皇室に対する罪」と同じように死刑を適用せよと迫る政府に、法令がない以上は単なる謀殺未遂だと無期徒刑の判決を下した児島大審院長。
ロシアとの戦争を恐れる政府は「法あっての国家」ではなく「国家あっての法」だと特に西郷内相と児島大審院長の論戦は面白い。
 
吉村昭著『ニコライ遭難』では確か、公判記録も交え事件の全容をこと細かに書かれていたと思うが、この富岡多恵子版は、近年見つかった津田三蔵書簡を重点に事件前の津田がどのような経歴、性格の男だったかを浮き彫りにしているような書かれている。
そこから垣間見えるのは安月給ながら只管、妻と二人の子供と母親への慈愛と几帳面さ。
事件の起った5月の1~2日、津田は伊賀上野に帰省しているが、公判記録では。
 
「何用で帰省したか」
 
「守山警察署詰トナリシ以来一度モ帰省セシ事ナク母ヨリ孫ノ顔モ見度キ故一度其地ヘ行クト申来リシ自分ハ少々取寄セタキ道具類モアリシ故六歳ニナル子供ヲ伴ヒテ帰省其夜最寄ノ親族等ヲ訪ヒ母方ニテ泊リタルナリ」
 
「肝要ノ噺ハ纏マラズ」
 
つまりは今後、母親と同居するかどうか、帰省して親戚と話しなどしたが、親戚一同誰も母の面倒を見てくれる者なしと三蔵は嘆いている。
そして10日後、津田はサーベルを抜いた。
この事件が国民に及ぼした多大な影響は今日よく伝わっているから省くが、一体に津田は何ゆえ、斯かる事件を起こしたのか。
 
巷間、いろいろ言われているが、どうも合点が行かぬ。
国賊になるのを覚悟で、尚且つ妻は満23歳、子供は4歳と1歳、それと老母の行く末。
津田は三浦順太郎予審判事の尋問に縷々原因を述べているが、こうも言っている。
 
「自分ナガラ分カラヌ」
 
その後、三蔵は7月2日に北海道釧路集治監へ収監され同年9月30日午前0時30分死去。
事件から3ヶ月も経っていない。
私が予審判事でも、事の重大さを考えれば、このような事件は津田の憤怒や反ロシア感情は理解出来ても、行為としては到底理解し得るべきものではない。
当時は弱肉強食の帝国主義時代、一歩間違えれば大変なことになっていた。
 
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